【進化という名の置き去り】
ここは、心がちょっと迷子になった人がひょっこりと訪れてしまう場所。
1杯のお茶をゆっくり飲み干す間に、ついつい心を開いて、溜め込んでいた本音を吐き出してしまう——そんな不思議な縁側です。
悪い心を持つ人は決して辿り着けない。心がほんの少し弱くなった人だけが、何かの拍子に見つけることができる場所。
さあ、今日はどんなお客様が、この暖簾をくぐってくるのかしら?
〜アナログ老兵を嘆くお客様〜
「これ、昨日も言いましたよね」
「これ、前に言いましたよね」
「メモなんかとっても無駄ですよ。実際に手を動かしてやらないと覚えないんじゃないですか?」
「だから、何回言えばいいんですか! さっき言ったばかりですよ」
「なんで計算機なんて使ってるんですか? 自動で計算されるはずですよ!」
会社の若い奴らに毎日毎日同じことを繰り返され、陰で馬奴にされている。奴らが教えてくれる用語から何から、「こっちが分かっている」という前提で早口でまくし立てる。そんな専門用語すら分からないのに、「なんで分からないんですか」と言われても、分かるわけがないだろう……。
会社は「効率化、効率化、コスパ、タイパ」と、何でも短く、何でもパソコン1つでやらせるようになってしまった。人間味がどんどんなくなって、いったいこれは誰のための便利さなんだろうか。
もういい加減にしてくれ。俺の頭じゃ、そんな最新の操作は覚えられないんだよ。一つ覚えると、一つ忘れてしまう。それに、メモに書かないとどうしても頭からこぼれ落ちてしまうんだ。
老眼鏡をかけてたって、画面の細かい字や薄い文字なんて全然見えない。薬の裏の成分表なんてとても見えやしないから、老眼鏡に虫眼鏡を重ねて見るしかない。会社では「エコで電気代がもったいない」と少し照明を落とされているけれど、みんなこんな薄暗い中で、本当にあんな細かい文字が見えているのだろうか。お前らだって、俺の歳になれば初めて分かるはずだ。
どんどんIT化が進んでしまったせいで、これまで自分が何十年もかけて積み上げてきた経験や手仕事の勘が、まるで「ゴミ」のように無駄扱いされてしまった。若い人たちからしたら、「なんでこんな簡単な操作もできないんだろう」「なんですぐ忘れるんだろう」と呆れるかもしれないが、もうついていけないものはついていけないんだ。
俺が一体何をしたというんだ。事務仕事だって、ずっとアナログでコツコツ、正確にやってきたじゃないか。それで何がいけないんだ。もう、生身の人間なんてこの会社にはいらないんじゃないか。
「もう限界だ……」
そう思い詰め、逃げ込むように席を立ってトイレへ向かおうとした。
その時だった。
オフィスの無機質な廊下の空気が、急にふわりと土の温かい感触に変わった。
——ここは、どこだ?
俺はVRの実験なんてしていないし、老眼鏡だって机の上に置いてきた。裸眼のはずなのに、視界が妙にはっきりしている。混乱しながら顔を上げると、目の前には古い日本家屋があり、縁側におばあちゃんがニコニコと笑いながら座っていた。
「おや、いらっしゃい。そんなに疲れ切った顔をして、まあ、お茶でも一杯飲んでいきなさいな」
「ここは一体どこですか? 仕事中なんです……! 早く戻らないと、また若い奴らに馬奴にされる。サボっているなんて言われたら……」
焦る俺に、おばあちゃんは優しく微笑んでこう言った。
「そんなに慌てなくても、お茶を一杯飲み干す間に、ちゃんと戻る道は現れるわよ」
その緑茶のほっとする香りが鼻をくすぐり、私はフラフラと縁側に引き寄せられて腰を下ろした。ひと口飲むと、張り詰めていた胸のつかえが少しだけ緩んだ気がした。
今まで目の前のパソコン画面の青白い光しか見ていなかったから、目の前に広がる遠くの山の緑の景色が、妙に目に染みた。
「おばあちゃん……もう、俺は時代についていけないんだよ。新しいやり方に追いつけないやつは、仕事をするな、置いていくってことなのか……」
私の絞り出すような言葉に、おばあちゃんは静かにうなずいた。
「ほんとうに、今の世の中は誰のための便利なのか分からないことが多いよねぇ。昔は機械の説明書だって手厚く書いてあったもんだが、今は『インターネットで自分で調べなさい』って放り出されてしまう。人間味のゆとりがなくなっているのかもしれないねぇ」
おばあちゃんはそう言うと、庭のほうをそっと指差した。
「あそこを見てごらん。石のうえで、のんびり歩いているカメがいるよ。カメはね、周りがどんなに早く走ろうとも、自分のペースでしっかりと地面を踏みしめて歩くからこそ、長い年月を生き抜くことができるんだよ。人間も同じさ。まわりがどんなに速いスピードで進もうとも、あなたが今まで培ってきた『手仕事の温もりや経験』という年輪は、決して消えるものじゃない。若い連中のスピードに無理して全部合わせようとしなくていいんだよ。あなたはあなたのペースで、やれることを丁寧にやればいいのさ」
おばあちゃんにそう言われ、私は胸の奥がつかえていたものがスッと軽くなるのを感じた。
全部を完璧に覚えられなくてもいい。若い奴らにバカにされても、自分には何十年も泥臭く積み上げてきた誇りがある。
「おばあちゃん、俺……もう少しだけ、自分のペースでやってみるよ」
そう言うと、おばあちゃんが指差したその先に、ゆらゆらと会社へと続く通路の光が見えていた。
「おばあちゃん、また困ったらここに相談に来てもいいかい?」
そう尋ねると、おばあちゃんは少しだけ寂しそうな、けれど温かい笑みを浮かべた。
「ここはね、一度きりの縁。一期一会の場所だから、もう二度とは来られないんだよ」
そして、自分の着物と同じ模様の小さな折り鶴をそっと手渡してくれた。
「これを見て、この遠くの山の景色を思い出しておいで。あなたなら、自分のペースできっと大丈夫だよ」
私は折り鶴をポケットにしまい、深く頭を下げて元の世界へと歩き出した。
もう、若い奴らのスピードにおびえて縮こまったりしない。俺には俺の歩幅があるのだから。




