【海を漂うクラゲの翼】
ここは、心がちょっと迷子になった人がひょっこりと訪れてしまう場所。
1杯のお茶をゆっくり飲み干す間に、ついつい心を開いて、溜め込んでいた本音を吐き出してしまう——そんな不思議な縁側です。
悪い心を持つ人は決して辿り着けない。心がほんの少し弱くなった人だけが、何かの拍子に見つけることができる場所。
さあ、今日はどんなお客様が、この暖簾をくぐってくるのかしら?
〜流されて漂うお客様〜
連休の家族旅行。ビジネスホテルの朝食ビュッフェ会場は混雑していた。
家族は自分たちの食べたいものを目指して一直線。私はキョロキョロと空席を探し、ようやく見つけた席に座った。夫と子供は遠くで料理をよそっており、私が席を確保していることなど気にも留めていない様子だ。ポケットのハンカチをテーブルに置いて、慌てて料理を取りに行った隙に、彼らは戻ってきて当然のように座り、食べ始めていた。
やっと自分の食事を選び始めたとき、夫が近づいてきて「あれはあそこにある」と聞いてもいない情報を伝えてくる。取ってくれるわけでもなく、彼は自分の分だけを抱えて席に戻った。
目の前で困っている年配の女性がいれば、とっさに「ここにありますよ」と手を貸してしまう。スプーンが汚れていれば、係の人に届けてしまい、憮然とした顔をされる。
自分のことで精一杯なのに、親切が体に染み付いてしまっている。一体、何なのだろう。
やっと食べ始めようとすると、家族はもう食べ終わるという。「何時に出発するの?」と子供に急かされ、夫は「お前が決めてくれ」と言い放つ。運転は彼らなのに。しかも「混んでるから早く席を譲れ」とまで言う。
旅行の計画も支度も、全部私がしているのに。仲良し家族のふりをしているだけではないだろうか。
ぼんやりとお茶を飲んでいると、タイミングを見計らったように相席希望の二人組がやってきた。「私たちは相席するだけだから、あなたは座ってていいのよ」と勝手に決めつけられ、確保していた場所が奪われたような気がした。
限界だった。私はスマホを握りしめ、会場を飛び出した。
冷たい風が頬を打つ。ふと目を離すと、目の前に古民家が建っていた。縁側でおばあちゃんがニコニコと手招きをしている。
「まあまあ、慌ててどうしたの? 喉が渇いたでしょう。一杯お茶を飲みなさい」
誘われるまま横に座り、お茶を一口飲むと、張り詰めていた糸が切れて涙が溢れた。
「おばあちゃん、私帰りたくないです。私は何のために存在しているんだろう。人のための世話係なだけでしょうか?」
おばあちゃんは静かに、古民家には似つかわしくない、怪しげな青い光を放つ透明な水槽を指差した。中では、ゆらゆらとクラゲが漂っている。
「あなたはね、あのクラゲと同じだよ。自分の形や意思があるのに、周りの潮の流れが強いと、どうしてもそっちへ流されてしまう。でもね、クラゲには本当は自分の進みたい方向へ進める力があるんだよ。今はただ、周りの流れに飲み込まれるのが『自分の生き方』だと勘違いしてしまっているだけなんだねぇ」
「私は……自分の好きにしてもいいの?」
「あなたは主役なんだよ。誰かのためのエキストラじゃない」
おばあちゃんは優しく背中を叩いてくれた。
「汚れたスプーンを戻したり、席を奪ったりする人たちは、どこに行ってもそうやって『恥ずかしい行動』を繰り返して生きているだけ。あなたがそんな人たちと同じ土俵で自分を汚す必要はないよ」
その言葉に、心が少しだけ軽くなった。
「おばあちゃん、私、自分が主役だと思い込むようにします」
私が帰る意向を伝えると、おばあちゃんは寂しそうに微笑んだ。
「ここは一期一会の場所。二度と来れないのよ。でもね……」
自分の着物と同じ模様の折り鶴をくれた。
「この折り鶴を見て、あなたがこの物語の主役であることを、いつでも思い出しなさい。あなたが自分を大切にすれば、もう怖いものはなくなるから」
私は深く頭を下げてその場を離れた。おばあちゃんが指差す先、騒がしいビュッフェ会場へと向かう道へ。
私はもう、誰かのためだけの世話係ではない。私の人生の主役として、一歩ずつ歩き出すんだ。




