【甘い羊羹と、自分の季節】
ここは、心がちょっと迷子になった人がひょっこりと訪れてしまう場所。
1杯のお茶をゆっくり飲み干す間に、ついつい心を開いて、溜め込んでいた本音を吐き出してしまう——そんな不思議な縁側です。
悪い心を持つ人は決して辿り着けない。心がほんの少し弱くなった人だけが、何かの拍子に見つけることができる場所。
さあ、今日はどんなお客様が、この暖簾をくぐってくるのかしら?
〜自分がわからなくなってしまったお客様〜
「あなたも頑張りなさい。成績1位を取りなさい。優勝しなさい。それができなきゃ、いい服も着られないわよ」
母の言葉は、いつも冷たいナイフのようだった。ピアノの優勝、学校の合格、完璧なスタイル。母は私を「賞品」のように磨き上げ、親戚や友人に自慢する。
幼い頃、デパートで転んだ私を、見知らぬ誰かが助けてくれた。その人の手は驚くほど暖かかった。けれど、隣にいた母は私を助けようともせず、お礼さえ言わなかった。私が優勝して頭を撫でられる時の母の手は、いつも氷のように冷たい。私は一体、誰のために生きているのだろう。
限界だった。家の扉を飛び出そうとして、気づけば私は、見知らぬ古民家の縁側の前にいた。
「あらあら、どうしたの? とても悲しそうな顔をしているわよ」
穏やかな声に顔を上げると、優しげなおばあちゃんが微笑んでいた。こちらに座りなさいと手を引っ張ってくれた。そのおばあちゃんの手は、あの時デパートで助けてくれた人と同じ、不思議な温かさを纏っていた。
おばあちゃんは庭の花を摘み、湯呑みに挿すと私に見せた。
「あなたは、あそこに飾られた高そうな花瓶の花みたいだねぇ」
「……え?」
「誰かに飾られ、水を替えてもらい、綺麗なままでいること。それが当たり前になっていない? でもね、その花は自分の土を持っていないから、本当の季節を知らないまま枯れていくんだよ」
張り詰めていた糸が、プツンと切れた。
「おばあちゃん、私、枯れるの?」
涙がこぼれ落ちると、おばあちゃんは特別な羊羹を差し出した。
「食べなさい。甘いものは体型が崩れる? そんなの、今この瞬間のあなたには関係ないことだよ」
口の中でとろける羊羹は、今まで食べたどんなものよりも甘く、温かかった。母の呪縛を溶かすような甘さに、私は初めて母への怒りを口にした。
「お母さんは、自分のことを飾るのに一生懸命で、本当の私なんて見ていないの……!」
おばあちゃんは優しく頷き、お茶を注いでくれた。
「何か好きなものはあるの?」
「……分からない。お母さんに言われた通りに生きてきたから、何一つ選んだことがないの」
「じゃあ、これから探せばいい。まずは、今日、自分が『美味しい』と思った気持ちを大事にするんだよ」
おばあちゃんの言葉で、凍りついていた心が少しずつ溶けていくのを感じた。
「おばあちゃん、またここに来ていい?」
「ここは一期一会の場所。一度来たら、もう二度と会えないのよ」
寂しそうな言葉と共に、おばあちゃんは着物と同じ模様の折り鶴をくれた。その手はやはり暖かく、私の頭をそっと撫でた。
「この鶴を見て、自分の季節を思い出してね。あなたは大丈夫」
私は振り返り、何度も手を振りながら、元の道へと戻っていった。
もう、誰かのために咲く花ではない。自分の土で、自分の季節を生きるんだ。そう心に決めて。




