【嵐のあとの、和菓子の約束】
ここは、心がちょっと迷子になった人がひょっこりと訪れてしまう場所。
1杯のお茶をゆっくり飲んでいる間に、ついつい心を開いて、溜め込んでいた本音を吐き出してしまう——そんな不思議な縁側です。
悪い心を持つ人は決して辿り着けない。心がほんの少し弱くなった人だけが、何かの拍子に見つけることができる場所。
さあ、今日はどんなお客様が、この暖簾をくぐってくるのかしら?
〜耳に蓋をしたいお客様〜
また始まった。毎晩毎晩、繰り返されるこの時間。
「ねぇ聞いてよ」から始まり、聞いても聞かなくてもギャーギャーと騒ぎ立てる。一言でも意見を言おうものなら、さらにヒートアップする。
夕飯くらい、ゆっくりと味わわせてくれ。俺は会社でクタクタになって帰ってきているんだ。何をそんなにわめくことがあるんだ。
もう、聞きたくない。
疲れ果てた俺は席を立ち、うなだれたまま二階の自分の部屋へ向かおうと階段へ足をかけた。その時だった。
足の下で感じたのは、硬い階段の感触ではなく、柔らかな土の感触だった。頭を上げると、そこは森の中。あちこちでムクドリが騒がしく鳴き交わしている。
目の前には古民家が建ち、縁側でおばあちゃんがニコニコと座っていた。
「……ここはどこだ? 階段を上がろうとしていたはずなのに」
「あらあら、それは大変ねぇ」
おばあちゃんは穏やかに微笑んだ。
「すぐ帰らないと。家に仕事を持ち込んでいるから、片付けないと……」
「道はすぐに現れるから。ここでお茶でも一杯飲んで、ゆっくり待っていましょう」
不思議と断る気になれず、俺はおばあちゃんの隣に腰を下ろした。
一杯の緑茶。それを口にした瞬間、心に溜まっていた重たい塊が、すーっと溶けていくのを感じた。
「……毎晩、妻がうるさくて。仕事の疲れもあって、帰宅してからも息が詰まる。妻の話を聞く余裕なんて、もう一ミリもないんだ」
「それは大変ねぇ」
おばあちゃんは屋根の方を指差した。ムクドリが何羽か止まって、じっとこちらを見下ろしている。
「あの子たち、騒がしいけれど、今はなんだか静かに見ているわね」
しばらくムクドリを眺めながらお茶をすするうちに、ささくれ立っていた心に落ち着きが戻ってきた。
「何を言っても妻は気に入らないようで、肯定しても否定しても、結局はギャーギャーと始まってしまうんです」
「まぁそうなのね。人は自分の感情が思い通りにならないと、相手がどれほど親切にしてくれようと、甘えてぶつけてしまうことがあるのよ。そんな中で、自分も余裕がないのに相手を受け止めようとしていたなんて……あなたは、本当に立派な心の持ち主だわ」
そう言われて、不覚にも泣きそうになった。
遠くの山を眺めながらお茶を飲み干すと、身体が嘘のように軽くなっている。
「おばあちゃん、ありがとう。なんだか、すっきりしました。今度、妻と一緒に食べる美味しい和菓子でも買って帰ることにします。……あ、おばあちゃんの分もね。また今度、それを持って必ずまた来ますから!」
おばあちゃんは、寂しそうに微笑んだ。
「ここは一期一会の場所。もう二度とここには来られないのよ」
その言葉に俺は驚いたが、彼女はそっと着物と同じ模様で折った折り鶴を一羽、手渡してくれた。
「これを見て、この山の雄大な風景を思い出してね」
俺は黙って頭を下げた。
ふと見ると、目の前に階段に続く道がうっすらと浮かんでいた。俺は「必ずまた来る」という言葉を飲み込み、一歩、また一歩と、その家へと続く道を進んでいった。




