【狐が見守る、逃げ道の地図】
ここは、心がちょっと迷子になった人がひょっこりと訪れてしまう場所。
1杯のお茶をゆっくり飲んでいる間に、ついつい心を開いて、溜め込んでいた本音を吐き出してしまう——そんな不思議な縁側です。
悪い心を持つ人は決して辿り着けない。心がほんの少し弱くなった人だけが、何かの拍子に見つけることができる場所。
さあ、今日はどんなお客様が、この暖簾をくぐってくるのかしら?
〜いつも頭を下げているお客様〜
また今日もお腹が痛くなる。
毎日毎日、接客業というだけで人のサンドバッグになっている。「私が何をしたっていうの?」安い給料で働き、ただそれだけのことで、どうして毎日理不尽な言葉を浴び続けなければならないんだろう。
もう限界だ。体も心も、これ以上は持たない。
そう思って店内のバックヤードへ行こうと振り向いた時だった。見慣れたボックス席の光景は消え、店内のBGMの代わりに、柔らかな鳥のさえずりが聞こえてきた。
目の前には古民家が建ち、縁側でおばあちゃんがニコニコとこちらを見て座っている。
「……ここはどこ?」
「まぁまぁ、どうしたの。そんなに急いで」
おばあちゃんは不思議そうに目を細める私に、穏やかに声をかけてきた。
「さっきまで店にいたはずなのに……。電話を貸してください、店長に叱られてしまう!」
焦る私に、おばあちゃんはのんびりと言った。
「ここでは電話は繋がらないわよ。まぁ座ってお茶でも飲んで行きなさい。すぐに道は現れるわよ」
普段なら怪しんで逃げ出しているはずだ。けれど今日は、何も考えられないほど疲れ果てていた。私は言われるままに縁側へ腰を下ろした。
鉄瓶がシュンシュンと静かな音を立てている。
「……私、何もしていないのに、理不尽に怒鳴られるんです。毎日毎日、人のサンドバッグになっていて……」
吐き出すと、おばあちゃんは静かに頷いた。
「そうねぇ、それは大変ね」
あらら、と庭を指差すおばあちゃんの先には、一匹の狐がウロウロと歩き回っているのが見えた。
「あの子も、自分のテリトリーを守るのに必死なのよ」
私はしばらく、その狐を眺めていた。毎日が辛くて、もうどうでもいい。仕事を辞めてしまおうか。そんな思考が頭を巡る。
「あなたは本当に頑張り屋さんね。人の痛みを耐え抜く強い心を持っているわ」
おばあちゃんは、私の心を見透かすように言った。
「でもね、人は心に余裕がなくなると、誰かに当たりたくなるものなのよ。当たり散らされる方は、たまったものじゃないけれどね」
緑茶をゆっくり飲み干すうちに、不思議と呼吸が深くなる。
あれほど胸に刺さっていた言葉の棘が、お茶の熱と一緒に溶けていくようだった。
「おばあちゃん、ごちそうさまです。……少しだけ、心が軽くなりました」
おばあちゃんは森の奥を指差した。
「ほら、あそこに道が現れたわよ」
「辛くなったら、またここに来てもいいですか?」
私が尋ねると、おばあちゃんは寂しそうに微笑んだ。
「ここはね、一期一会の場所。一度しか来られないのよ」
「そんな……寂しい」
「これを持っていきなさい」
おばあちゃんは、自分の着物と同じ模様の折り鶴を私に手渡した。
「これがあれば、いつでもこの風景を思い出せるわよ」
私は何度も振り返りながら、おばあちゃんが指差した先へ歩き出した。
元の日常へと続く、新しい道がそこにはあった。




