6.甘い悪夢の終わりに
駆け落ちの旅の始まりは、確かに蜜月と呼べるものでした。
けれど、そんな幻想は一瞬で崩壊することになります
地方の、それなりに格の高い高級ホテルのスイートルーム。
テーブルの上には、私が公爵邸から持ち出した最高級のルビーのネックレスが、無造作に転がっていました。
「ねえ、レックス。次はこのネックレスを売るの?
ヴァレンティ家にいた頃のように特注のドレスは作れないの……?」
ソファで高級ブランデーを煽っていたレックスは、私の言葉に心底退屈そうに鼻を鳴らしました。
「当たり前だろ、アンナ。
実家からの仕送りを止められた俺たちが、これだけの贅沢を維持できているだけで奇跡なんだよ。不満を言うな」
「不満よ!大不満だわ!
こんな田舎のホテルに閉じ込められて、誰も私を『氷の薔薇』って称えてくれない!
お腹には子供までできて、体型だって崩れていくのに……!
ねえ、レックス、私を見てよ!私を褒めて頂戴!」
私は乱れた赤毛を振り乱し、レックスの胸ぐらに掴みかかりました。
「うるせえな!だからお前は重いんだよ!」
レックスは私を冷たく突き放すと、私の宝石で換金した札束をポケットにねじ込み、ドアへと向かいました。
「どこへ行くの、レックス!?」
「地元の夜会だよ。
お前みたいにヒステリックに喚かない、聞き上手な令嬢たちが待っているんでね。……じゃあな、公爵夫人」
バタン、と重いドアが閉まり、静寂だけが残されました。
贅沢なディナーが並ぶテーブル。
誰もいない、広い部屋。
お金はある。
飢えて死ぬわけでもない。
なのに、私の心は乾ききって、死んでしまいそうでした。
周囲に自分をチヤホヤしてくれる人間が誰もいない――それは私にとって、生きながらにして華やかな世界の底辺に突き落とされたような、最悪の拷問でした。
そして、ある雨の朝。
目が覚めると、部屋の中にレックスの姿はありませんでした。
テーブルの上には、一枚の書き置きが残されているだけ。
『実家から急な仕事の呼び出しがあった。
しばらく戻れない。
もう追ってこないでくれ』
「嘘……嘘よ、レックス!
私を置いていかないで!!」
私は書き置きを破り捨て、泣き叫びました。
捨てられた。
私は、あの小生意気な軍人の若造に、ゴミのように捨てられたのだ。
窓に映る自分の顔を見ました。
そこには、かつて社交界を魅了した「氷の薔薇」の面影はありませんでした。
髪は艶を無くし、肌は荒れ、狂気と絶望に満ちた哀れな女の顔があるだけ。
その時、私の脳裏に、無性に恋しい一つの面影が浮かび上がりました。
「セルジオ……」
私の可愛い、私を大好きだった息子。
あの子なら、きっと私を受け入れてくれる。
あの子は私のものだから。
あの子の母親は私だけだから。
すでに父親そっくりの冷徹さに成長しているであろう息子の現実から目を背け、私は縋るような思いで、再び公爵家へと舞い戻る決意をしたのです。




