5.秒読みの楽園、引き金は甘い誘惑(後)
激しい焦燥感に駆られた私は、公爵邸を飛び出し、一人で少し離れた帝都の駅へと向かいました。
どこへ行く当てがあるわけでもありません。
ただ、あの冷え切った邸にいると、自分が消えてしまいそうだったのです。
蒸気機関車の煙が立ち込める、賑やかな駅のプラットホーム。
華やかなドレスを着た私が、一人でふらふらと歩いている姿は、ひどく目立っていたに違いありません。
「おや、こんなところで、迷子の美しいお嬢さん……いや、麗しいマダムかな?」
突然、背後から軽薄な、しかし酷く魅力的な声がかけられました。
振り返ると、そこには見事な軍服を纏った、整った容姿の青年が立っていました。
私より五歳は年下でしょうか。
引き締まった体に、悪戯っぽく笑う、どこか陰のある瞳。
「……なにか御用かしら?
私はヴァレンティ公爵夫人よ。不躾に声をかけないで」
いつも通りの高慢な態度で拒絶しようとしました。
しかし、その青年——レックスは、怯えるどころか、さらに甘い笑みを深めました。
「これは失礼、公爵夫人。
ですが、あなたのその『氷の薔薇』のような冷ややかな美しさに、私の心は一瞬で奪われてしまった。
どうか、私の無礼をお許しいただき、その寂しげな瞳の理由を教えてくれませんか?」
氷の薔薇。
その言葉が、私の乾ききった心に、驚くほど深く突き刺さりました。
彼は私を見ている。
公爵夫人という肩書きではなく、私自身の美しさを、私という女を、激しく求めている。
後で知ったのですが、レックスにとってこれはただの「賭け」でした。
悪友たちとの「誰があの高慢な公爵夫人を落とせるか」という、退屈しのぎのゲームに過ぎなかったのです。
しかし、愛に飢え、狂いかけていた私は、一瞬で激しい恋に落ちてしまいました。
「あなた……レックス、と言ったかしら?」
「ええ、あなたの忠実な下僕です、アンナ」
彼は私の手をとり、手の甲に熱いキスを落としました。
その瞬間、私の頭の中で、何かが完全に弾け飛びました。
「レックス、私をどこかへ連れて行って。
あの冷たい家も、私を見捨てた息子も、すべて捨ててあげるわ」
「……はは、本気かい、アンナ?
スリル満点だね」
レックスは面白がるように笑いました。
彼は大人のアバンチュール、ちょっとした火遊びのつもりだったのでしょう。
まさか、公爵夫人が本当にすべてを投げ出すとは、思ってもみなかったに違いありません。
しかし、私は本気でした。
私を認めない世界など、こちらから捨ててやる。
レックスの隣で、私は再び「世界で一番愛される特別な女」に戻るのだ。
私は公爵夫人としての富も、名誉も、そして息子セルジオさえも駅のホームに置き去りにし、レックスの手を取って、遠く離れた街行きの列車へと飛び乗ったのです。




