4.秒読みの楽園、引き金は甘い誘惑(前)
セルジオ八歳の誕生日。
公爵邸では、あの子の成長を祝う盛大な祝宴が催されていました。
「さあ、セルジオ。お母様の隣へいらっしゃい。
皆に、あなたがどれだけお母様を愛しているか見せてあげるのよ」
いつものように、甘い声でセルジオを呼び寄せ、その肩を抱き寄せようとしました。が、私の手のひらは、空を切りました。
セルジオが、私の手を一歩退いてかわしたのです!
「ありがとうございます、母上。
でも、これからは公爵家の嫡男として、人前で甘えることは慎むよう、父上から教わりました」
「……え? セルジオ、何を言っているの?
お母様のそばが一番安心なのでしょう? 今日はあなたのお誕生日なのよ?」
「父上のお側へ行ってまいります」
セルジオは完璧な一礼を尽くすと、迷いのない足取りでアレクの元へと歩み寄っていきました。
「どういうこと……?
あんなに私にベタベタと纏わりついていたのに……」
私は、一人取り残された祝宴の片隅で、ドレスの裾を狂おしいほどに握りしめるしかありませんでした。
祝宴の夜が明けても、状況は変わリませんでした。
それどころか、セルジオの変化はどんどん加速していきました。
「セルジオ、今日もお母様と一緒に、お庭でお茶会をしましょう?
お姉さまが美味しいクッキーを用意してくれたのよ」
私は満面の笑みで、息子の部屋を訪れました。
けれど、そこにいたセルジオは、私の知っている「可愛い坊や」ではありませんでした。
彼は机に向かい、熱心に帝王学の書物を読んでいました。
私が声をかけても、振り返りもしません。
「……いえ、お母様。
僕はこれから、父上と領地経営についての講義を受ける予定があります。
お茶会に出席している時間はありません」
その声は、かつての甘えた響きを完全に失っていました。
低く、落ち着いていて、どこか冷ややか。
「え……?でも、セルジオ、お父様は怖くて嫌いだったでしょう?
お母様と一緒にいた方が楽しいわよ?」
焦った私は、セルジオの肩を掴もうとしました。
しかし、彼は滑らかな動作でそれをかわし、立ち上がりました。
その佇まいは、いつの間にか父親であるアレクに酷く似てきていたのです。
「僕は公爵家の嫡男です。
いつまでも子供のように、お母様にべったりと甘えて遊んでいるわけにはいきません。
父上は厳格ですが、そのお考えは常に正しい。僕は、父上のような立派な公爵になるために、学ばなければならないのです」
「なんですって!? お母様との時間が遊びだと言うの!?
あなた、昔は『お母様だけいれば他は何もいらない』って泣いていたじゃない!」
「……それは、僕がまだ物事の分からぬ幼児だった頃の話です。
これからは父上を尊敬し、その背中を追うのが僕の務めです。
母上も、いつまでも息子に執着されるのは、社交界の聞こえがよろしくないかと」
「っ……!」
セルジオの琥珀色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜きました。
そこには、かつて私に向けられていた盲目的な愛など、ひとかけらも残っていませんでした。
あるのは、ただの「義務」と「冷徹な理性」。
「セルジオ……?」
息子はそのまま、私の横を通り過ぎて部屋を出て行きました。
残された私は、ガタガタと震え出しました。
何かがおかしい。
私の世界が、歪み始めている。
あんなに私を求めてくれたセルジオが、私を見てくれない。
アレクも相変わらず私を形式的にしか扱わない。
社交界での称賛すら、どこか色褪せて聞こえる。
私の心に、底なしの暗い穴が空いたようでした。
飢え。激しい承認欲求の飢えが、私を内側から焼き尽くそうとしていました。寂しくて、寂しくて、死んでしまいそうでした。




