第三部:模倣者たちの墓標
それは報告ではなく、座標だった。
ユウが発信源を特定したとき、アオイはコクピットにいなかった。台所で缶を開けている音がした。ユウは声を上げた。
「アオイさん、近傍宙域で二人のゴーストダイバーが重傷を負っています」
缶の音が止まった。
「七瀬マニューバーを試みて、重力計算が足りなかったと推測されます」
足音が来た。アオイがコクピットに入る。缶は持っていない。
「座標」
「送ります」
ハウンドドッグ号が向きを変えた。
現場に着いたとき、二人の若いゴーストダイバーは救助対象の船を助けた後で、自分たちの船が半壊していた。二十代。女が一人、男が一人。女の方は軽傷で、男の方は右腕と肋骨数本に損傷があった。意識はある。
アオイが重傷の男を抱え起こした。何も言わなかった。しばらく、その若者の状態を確認していた。呼吸、骨の状態、顔色。処置は手際がよかった。体に覚えさせた動作というのはこういうものだ、とユウは思いながら補助した。
軽傷の女が言った。
「七瀬さんの方法を、やってみたくて……。ベガ7の件の記録が出回ってて、私たちにもできると思ったんです」
アオイは黙っていた。十秒ほどの沈黙。
「前例がない? じゃあ作ればいいじゃん。でもその前にきちんと教えなきゃな」
その言葉は、誰かに向けて言ったのではなかった。自分に言い聞かせるような声だった。ユウはその声の質を聞いた。責任という重さが、初めてアオイの声に宿った瞬間だ。
「次会ったとき、最初から教える。だからそれまで死ぬな」
「は、はい……」
「計算が足りなかったんじゃない。計算の意味が分かってなかっただけだ。教えてもらえば分かる」
女が何か言おうとして、口を閉じた。アオイの声のトーンが、謝罪でも叱責でもない何かだったから。
帰路、ヴォルコフからの正式な警告が届いた。
「あなたの行動が人を殺し始めています。今日の件は報告が上がっています。七瀬マニューバーの模倣による事故は今後も繰り返される。統計が示しています」
「……」
「何か言いなさい」
「……また教えに行く」
「それが答えですか」
「それしかない」
ヴォルコフが黙った。息を吐く音だけが聞こえた。
「あなたは正しいことを言っています。しかし《《正しいことの全部を言っていない》》」
アオイは何も言わなかった。
ヴォルコフも、それ以上言わなかった。
通信が終わって、ユウはタブレットを閉じた。
窓の外の星が流れている。宇宙はこんなに静かなのに、人間はなぜこんなに騒がしいのか。ユウはときどきそれを不思議に思う。そしてすぐに答えが出る。静かな宇宙に、ずっと静かに浮かんでいるだけでは死んでしまうからだ。
「ヴォルコフさんは間違っていません」
「知ってる」
「でもあなたも間違っていないと思います」
「知ってる」
「……《《両方正しいこと》》が、どうしてこんなに《《難しくなるんですか》》」
アオイは窓の外を見た。星の光が等速で流れている。
「正しいものが二つあるとき、どっちかを選ぶしかない。どっちを選んでも、選ばなかった方の正しさは残る。それがずっとそこにある。それだけだ」
ユウの中にその言葉は長く残った。
選ばなかった方の正しさは残る。
それはユウ自身の話でもあった。自分の過去について、ユウはまだアオイに話していなかった。
その夜、ユウはアオイの冷蔵庫を開けた。料理を作ろうとしたわけではない。食材を確認したかっただけだ。結果は予想通りだった。酒が六本、水が一本、謎の調味料が一つ。それだけ。
謎の調味料はラベルが日焼けで読めなくなっていた。容器は陶器製で、小さくて、丸い。形から判断して地球外の惑星の産品だ。どの星系かは分からない。アオイがどこで手に入れたかも分からない。ユウは賞味期限を確認しようとして、ラベルの文字が読めないことに気づいて黙って戻した。
翌朝、二人で食料品の補充に行った。アオイは宇宙港の商店街で、ユウが選んだものに文句を言わない。ただし自分では何も選ばない。補充するのはいつも酒と缶詰だけだ。今日もその二種類をカゴに入れて、それ以外は無関心に歩いていた。
化粧品コーナーの前を通ったとき、アオイが立ち止まった。
「なんですか」
「何でもない」
でも動かなかった。棚の一角を見ていた。ハンドクリーム。船内は乾燥するから。宇宙服を着脱する回数が多いから、手は荒れやすい。アオイの手を見ると確かに、節の部分に細かいひびがある。
「買ったらどうですか」
「高い」
「たったの百クレジットです。酒一本より安いです」
「……余計なお世話だ」
それでもアオイはその棚から無香料のハンドクリームを一本取って、カゴに入れた。それ以上は何も言わなかった。
宇宙港の安食堂で昼食を取った。アオイはチャーハンを頼んだ。ユウはサンドイッチ。アオイは食べながら競艇の週間スケジュールを確認していた。次のレースの組み合わせを眺めて、ユウには理解できない基準で何かにマークをつけていた。
「今度も確率が低い方ですか」
「圧倒的に」
「勝てると思っているんですか」
「思ってない。でも引っ張れると思ってる」
ユウはサンドイッチを食べながらそれを聞いた。引っ張る。確率を引き寄せるのではなく、自分がそちらに動いていくような言い方だ。
アオイは競艇の画面を閉じて、チャーハンを食べ終えた。
「仕事の話があります」
ユウが切り替えた。
「辺境星系で武力衝突が起きています。難民船の信号が複数出ています」
「難民船の救助は危険度が高い。交戦区域に飛び込む必要がある」
「分かっています。でもあなたは行くんでしょう?」
「あったり前じゃん」
アオイは席を立った。食器を返す。レジで支払いをする。ユウの分も払っていた。
「なんで払うんですか」
「別にいいじゃん、たまには」
「たまにって……今月で三回目です」
「そう? じゃあ来月は払って」
ハウンドドッグ号に戻りながら、ユウは「来月」という言葉を聞いた。先のことを口にした。来月もここにいる前提で喋っている。それがアオイにとっては当たり前のことなのだ。ユウにとっては、ほんの少しだけ重い言葉だった。




