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【SF短編小説】確率0.03%のゴーストダイバー ~宇宙で一番迷惑で愛すべき救助屋~  作者: 霧崎薫


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第二部:引力の井戸

 ユウがハウンドドッグ号に強制的に「乗り込まされた」のは三週間前のことだった。その後、後で降ろしてもらう機会は一度も来なかった。救難信号が途絶えない。宇宙はとても広いし、人間はとても脆い。


 ユウは助手席に自分のエリアを作った。タブレットホルダー、計算用のサブモニター、常備薬の収納ポーチ、折りたたみ式のティッシュボックス。最低限の秩序。アオイのエリアは空き瓶と謎の工具とどこかで拾ってきたクッションが混在していて、ユウが触ると怒鳴られるので触っていない。


「ちゃんと食べてください」


「やだ」


「歯も磨いてください」


「やだ」


「じゃあ()()()()()()()


()()()


 ユウは毎朝同じことを言った。同じ返答が来た。宇宙での二人の朝はだいたいそうやって始まった。


 この日の信号は違う性質を持っていた。


 発信源は〈ブラックホール・ベガ7近傍宙域〉。研究船「コロンブス4」、乗員十二名。エンジン全損。ベガ7の重力圏に捕まり、じりじりと引き込まれつつある。現在の軌道では十九時間後に臨界点を越える。


 AI判定が表示された。


 救助成功率、0.8パーセント。


 アオイが表示を見た。


()()()()()


 笑いながら言った。でも同時に、左手の甲を計器盤の縁に当てて、少しだけ力を込めていた。ユウは計算を始めていたので気づかなかった。


「ベガ7近傍は到達可能ですが、到達できても脱出経路がありません。引力の井戸に降りたら戻れない」


「そう」


「『そう』って何ですか」


「引力を使えばいい」


「使うって……引き込まれるだけですよ」


「引き込まれながら加速して、逆側に飛び出す」


「それは——」


「スイングバイの逆。廃棄予定の巨大貨物船があるはず、この宙域に。廃棄船をブラックホールの重力で加速させて、その慣性をハウンドドッグに伝達する」


 ユウは計算を止めた。


 止めて、考えた。


 頭の中でベクトルを組み立てる。廃棄貨物船の質量と現在座標、ベガ7の引力分布、ハウンドドッグの最大加速度。計算式が組み上がるまでの時間は、ユウにとっていつも同じくらいかかる。二十八秒。


「……理論上は可能です」


「そう言うと思った」


「ただし」


「ただし?」


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。シミュレーション値はあくまで予測で、実際の乱気流や廃棄船の構造劣化次第でマージンが変わります。私の計算はぎりぎりです。誤差が生じれば——」


「ぎりぎりで十分」


「十分じゃありません!」


「ぎりぎりを通り抜けるのが()()()()()()()()()


 ユウは計算を続けた。反論を続けながら計算した。二十分後、最適な廃棄船の座標と投入タイミングを出した。


「……計算、できました」


「お、ありがと」


「お礼を言われても困ります。だって()()()()()()()()はありませんから」


「でもお前が計算してくれたから、できる限界まで詰めた作戦になったろ。それはありがとうって言う場面だろ」


 ユウは返事ができなかった。


 廃棄貨物船は〈ハミング4号〉という名前だった。かつては惑星間物資輸送に使われていた大型船で、今は軌道上に放置されている。エンジンが死んでいるだけで構造は残っている。アオイはその船に遠隔接続して補助推進装置を起動させ、ベガ7の引力圏に投入した。


 巨大な質量がブラックホールに引き寄せられながら加速する。ユウが計算した投入角度は、その加速ベクトルがハウンドドッグの飛行ラインと交差するよう設計されていた。


 問題は、ハミング4号が予定より0.3秒早く加速を始めたことだ。


「ズレてます!」


「知ってる」


「知ってるって——」


「今修正する」


 アオイの手が操縦桿の上で動いた。普通の操縦ではない。計器を見ていない。窓の外を見ていない。目を細めて、船体の振動を感じている。ハミング4号が内包する力を、船を通じて皮膚で読んでいる。


「ユウ、連結タイミングを——」


「0.8秒後に修正します」


「0.7」


「0.7は私の計算と違います」


「今この瞬間の流れが、0().()7()()()()()()


 ユウは歯を食いしばった。0.7秒後に連結指示を送った。


 激震。船体全体がたわむような衝撃。ユウはアームレストを両手で握った。シートベルトが食い込む。計器盤のランプが一瞬全部点灯して、消えた。


 静寂。


 ハウンドドッグ号がベガ7の引力圏の外側に吐き出された。


「コロンブス4、応答してください。こちらハウンドドッグ号。いまから牽引に入ります」


 通信が繋がった。コロンブス4の船長の声は震えていた。


「……聞こえます。助かります——」


「泣くのは後で。今は私の指示通りに動いて。急いでる」


 牽引完了まで二時間かかった。


 帰還後、ユウはしばらくシートから動けなかった。計算が成立した達成感と、計算が及ばなかった瞬間への恐怖が、同じ場所に収まっていた。


 アオイはコクピットを出て、台所で何か作っていた。カップ麺。アオイが唯一できる料理。


「食べる?」


「……食べます」


 二つ作って戻ってきた。アオイはお湯を入れる前に栓を抜くのを忘れていたのでユウが開けた。


「0.7秒、正しかったですね」


「うん」


「なぜ分かったんですか」


「なんとなく」


「なんとなく、は答えじゃありません」


()()()()()()()()、の方が正確かもな」


 ユウはカップ麺の蓋を押さえながら考えた。船が教えてくれた。物理的な現象として、それは船体の振動パターンが操縦者の感覚器に伝達されて、経験則に基づく予測が生成されるということだ。理論化は可能だ。しかしアオイはそれを意識していない。


「……それは理論化できます」


「しなくていい」


「した方が再現性があります。次に似たような状況で——」


「お前が計算してくれたから今日はできた」


「私のじゃなくても——」


()()()()()()()()()()()()()()()()


 ユウは止まった。


 アオイはカップ麺を食べ始めた。手際は悪い。麺を持ち上げすぎて汁が飛ぶ。それを見てもいない。


「……どうしてそんなことを言うんですか」


「本当のことだから」


「……」


「お前の計算はぎりぎりだったけど、ぎりぎりを算出できる計算だった。それは技術だよ。私にはできない」


 ユウは返事をしなかった。


 その夜、ユウはベッドに入ってから、手の震えに気づいた。恐怖ではなく、興奮だと思う。よく分からない。正確に分類する言葉を今は持っていない。しかしその原因がアオイにあるのは明らかだった。


 数日後、ユウが調べ物をしていると報告が入ってきた。


「この前のあれ、()()()()()()()()って名前がついています」


 アオイはコクピットで宇宙競艇の中継を見ていた。


「晩飯なに食べる?」


「……聞いてましたか?」


「聞いてた」


「じゃあ返答してください」


「カップ麺」


「だあら毎回カップ麺は——」


 アオイはしばらく黙った。その間も目は中継を見ている。競艇の宇宙船が画面の端でクラッシュして、アオイは舌を打った。賭けていた艇だ。また負けた。


 中継が終わってから、アオイは窓の外を向いた。星が流れている。


「……あれ、名前ついたんだ」


「ついてます」


「……へえ」


 それだけ言って、アオイはコクピットから出ていった。ユウには意味が分からなかった。でも何かが変わったような気はした。


 ユウはその夜、アオイが宇宙競艇に賭ける様子を横目で観察した。今日だけで四レース。全部負けた。


「なぜそんな賭けにしか興味ないんですか」


「何が」


「オッズを見ると、あなたが選ぶのはいつも確率が低い側です。宇宙競艇でも、カード賭博でも」


「そう?」


「統計的に合理的な賭け方があります。期待値を計算すれば——」


「そういう賭けは()()()()()


 アオイはビールの缶を開けた。銘柄はいつも同じ、第七区画の免税店で一番安いやつ。缶の底に指のへこみが一つついているのは、開けるときに握る習慣があるからだ。そういう細かい癖を、ユウはいつの間にか把握していた。


「数パーセントしかない目が来たとき、何かが分かる気がして」


「何が分かるんですか」


「……引き寄せ方の感覚、みたいなもの」


 ユウはその言葉を咀嚼した。ギャンブルが訓練だ。確率が低い結果を手繰り寄せる感覚の、プライベートな訓練。コロンブス4の件で、アオイが0.7という数字を「なんとなく」読めた理由が、少しだけ見えた気がした。少しだけ。


 ヴォルコフからの通信が来たのは、その二日後だった。


「七瀬マニューバーが次の世代のゴーストダイバーに模倣されたら、死者が出ます。統計的な予測として、あなたに伝える義務があると判断しました」


「……」


「聞いてますか、七瀬アオイ」


「聞いてる」


「コメントは?」


「別にいんじゃね?」


 通信が切れた。


 アオイは缶ビールを飲み干した。それを机に置く音が、少しだけ大きかった。ユウは計算の続きに目を向けたまま、音を聞いていた。


 ヴォルコフの言葉は間違っていない。アオイも分かっている。だからこそ音が大きかった。正しい批判は、的外れな批判より、遥かに深く刺さる。


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