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【SF短編小説】確率0.03%のゴーストダイバー ~宇宙で一番迷惑で愛すべき救助屋~  作者: 霧崎薫


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第一部:3パーセントの逆転劇

 宇宙港ハブ・カルデアの第七区画は、昼夜を問わず同じ顔をしている。プラスチックと機械油と安酒の蒸れた匂い。天井の蛍光灯が一本だけ点滅を繰り返していて、それを誰も直そうとしない。人間は慣れる生き物だから。あるいは、慣れるしかない場所に生まれてしまった生き物だから。


「追ってくる追ってくる追ってくる!!」


 七瀬アオイは三つ編みがほどけかけた黒髪を振り乱しながら、荷物用コンテナの間を縫って走っていた。作業着のポケットに手を突っ込んだまま、クッションなしで走れる体だ。靴は紐が解けていた。それでも走る速さは落ちない。


「しつけえなあ! 返すって言ってんだろが!」


「三ヶ月前にも同じこと言ってただろうがあ!」


 追いかけてくる男が二人。体格はアオイより一回りは大きいが、コンテナの隙間には入らない。アオイはこの界隈を熟知している。第七区画の荷物用コンテナの配列は、過去八回の逃走で頭に叩き込んであった。


 十七番コンテナと十八番の間を右へ。突き当たりを左。段差を踏み台にして五番コンテナの上に跳び乗り、向こう側へ飛び降りる。膝の屈伸でいちど衝撃を吸って、立ち上がると同時に走り出す。


 ここまでは計画通りだった。


 問題は、空き地の向こうにもう一人いたことだ。


 借金取りの三人目が腕を組んで立っていた。大柄で顎が四角い。アオイは一瞬だけ立ち止まり、男を上から下まで見た。


「へへ……笑っていいですか」


「笑いごっちゃねえだろうが」


「へえ、そうですか」


 アオイは笑わなかった。かわりに、男の背後にある薄暗い酒場の看板をちらりと見た。〈パルサー〉。第七区画で一番安い酒が飲める店。アオイが七年前から通い続けている場所であり、先月から出禁になっている場所でもある。理由はグラスを割ったからだ。ただしそのグラスは、アオイのものではなかった。


 と、胸ポケットの受信器が鳴った。


 電子音ではない。バイブレーションと、かすかな音程を持った低い発振音。それはアオイが独自に設定した、救難信号専用のアラームだった。


 三人目の男が手を伸ばしてくる。

 その瞬間、アオイの表情から何かが消えた。


 笑いでも、怒りでもない。もっと静かな何かが消えた。川の表面から浮き草が流れていくみたいに。それは「酒の借金を踏み倒している人間の顔」ではなかった。少しだけ遠い、何か思い出しているような目だった。


 男の手をくぐって半歩踏み込み、肘で距離を作り、走った。

 方向は酒場ではなく宇宙港の出入口。


「あ、おいこら!」


「必ず返すから今は見逃しな!」


 返せないかもしれないけど。

 まあ、そんときはそんときで考える。


 受信器を取り出して音程を確認する。周波数から判断して、発信源は宇宙港から三光時ほど離れた宙域。民間船のコードだ。


 アオイは走りながら表示を拡大した。


 救助成功率、2.7パーセント。


 0.5秒ほど、足が遅れた。


 ほんの少しの空白。

 宇宙港の雑踏の中で、誰にも気づかれない程度の一瞬。


 すぐに走り出す。


「2.7……高いじゃん」


 小声で言った。自分に聞こえるくらいの音量で。


 ハウンドドッグ号は第七区画の隅、収容費用が一番安いドックに停まっていた。見た目は廃材を組み合わせたようなサルベージ船で、外壁には溶接の継ぎ目が幾重にも走っている。それでも内部は違う。アオイが十年かけて手を入れ続けた、宇宙で一番いびつで繊細な怪物だ。


 タラップを駆け上がりながら、アオイはコクピットに直接通話を入れた。


「ドッグ、エンジン起動。出発は三分後」


「了解です、船長。ただし現在の残燃料では帰還に問題が生じます」


「いい。帰り道で考える」


「承知しました。いつものですね」


 AIの声は妙に素っ気ない。アオイが違法改造を繰り返した結果、このAIは感情表現の回路が半分潰れていた。


 コクピットに滑り込み、シートベルトを締める前にエンジンを点火する。計器盤の三分の一は改造品で、標準規格とは微妙に色が違う。左端の小さな表示器だけが最初からそこにある。アオイが一番最初に取り付けたやつだ。救難信号の受信専用。


 出発許可を申請する前にドックを出た。

 同時に管制から怒鳴り声が飛んでくる。


「七瀬機、出発許可が下りていません!」


「勘弁! 急ぎなんで!」


「そういう問題では——」


 アオイは通信を切った。管制への謝罪はいつも後回しだ。管制も七年のつきあいでもう慣れっこだ。


 船が宇宙港の重力圏を抜けた瞬間、別の通信が入ってきた。


「七瀬アオイ」


 女の声だった。低く、疲れた声。アオイは聞いた瞬間にため息をついた。


「ヴォルコフさんですか」


「出動を中止しなさい。成功率2.7パーセントでの強行出動は規定違反です」


 銀河救助局の局長代理、ライカ・ヴォルコフ。

 アオイが宇宙港で出禁になっている酒場〈パルサー〉に、かつて常連客がいた。七年前まで。アオイはその常連客が使っていたグラスを割ってしまったのだ。誰がそのグラスを使っていたかを知ったのは、その後だった。


「受信しました。じゃ、そゆことで」


 アオイは通信を切った。


 数秒後、再接続。


「……また始まった」


 ヴォルコフのつぶやきがアオイの耳に届くような気がした。

 疲れた声。アオイには分かっていた。あの声は怒りではない。

 それ以外の何かを色濃く含んでいる。


 何かが飛んできた。


 ドックを離れる瞬間、ヴォルコフが何かを発射したようだ。ドアのスリットから物体が滑り込んでくる。アオイは手を伸ばして受け取った。


 胃薬のシートだった。メモがついていた。


「どうせ止まらないなら、これくらい持っておきなさい」


「……」


 アオイはしばらくそれを見て、ポケットに入れた。何も言わなかった。


 通信が切れた。


 亜光速航行に切り替えた瞬間、コクピットの後方から声が聞こえた。


「あの、すみません」


 アオイは振り返った。


 通路の入口に、少年が立っていた。


 眼鏡。白いシャツ。小柄で、年齢のわりに幼く見える。荷物は小型のバッグ一つ。その荷物を両手でしっかり持って、少し緊張した顔で立っている。


「誰だお前」


「天城ユウです。現在の最適救助ルートを計算しました」


「乗っていいとは言ってないぞ」


「私があなたに接触する前に出発したので、許可を求められませんでした」


 アオイはしばらく少年を見た。少年もアオイを見た。眼鏡の奥の目が真剣で、困惑している。どちらかというと困惑の方が多い。


「なんで密航した」


「客船にかつての恩師が乗っています。この発信源の船に」


「……それで?」


「理論上の最適ルートを算出しました。現在の航路より十七分早く到達できます」


 アオイは前を向いた。


「へえ。計算してみろよ」


「え、信じてくれるんですか」


「計算した後、それが参考になるかどうかはあたしが判断する」


 ユウはバッグからタブレットを取り出して座った。アオイは何も言わなかった。座る場所は助手席以外になかったので、ユウは助手席に座っていた。そこにはアオイが乱雑に脱ぎ捨てた服と酒の空き瓶が大量にあったが、ユウは丁寧にそれをどかして座った。


「……船内の生活水準が、文化的で最低限な人間の生活基準を下回っていると思いますが」


「気のせいだ」


「承知しました」


 窓の外に星が流れる。ユウは計算を始めた。アオイは操縦桿を握ったまま、計算がまとまるのを待った。


 出会いというのは不思議なもので、後から振り返ると「そのときから決まっていた」みたいに見えることがある。でも実際は偶然の積み重ねで、誰かが宇宙港の隅で借金取りに追いかけられていなければ、あるいは三分早く出発していれば、ユウはここにいなかった。


 アオイはそういうことをあまり考えない。

 考えるのが苦手なのではなく、考えても仕方ないからだ。


 信号源までの距離が縮まっていく。


 遭難船は老朽化した中型客船だった。重力嵐の乱流に捕まって、エンジンが半壊している。乗客数は三千二百名。


「接近経路を三パターン計算しました」


 ユウが表示を送ってくる。アオイはちらりと見た。


「これ、全部標準経路だ」


「標準経路が最短です。乱流の外側を迂回して——」


「乱流の外側を通ったら間に合わない」


「それは計算済みで——」


「乱流を使う」


 ユウが止まった。


「乱流は変数が多すぎます。予測できない」


「だから面白い」


「面白さで判断しているんですか!?」


「重力嵐の渦は、中心から一定の距離で流速が落ちる。乱流を横断するんじゃなくて、渦に沿って加速する。スイングバイの要領で。船体にかかる最大Gは……」


 アオイは暗算した。体感で。


「……7.4G。許容範囲内」


「どうしてそれが分かるんですか」


「昔似たような嵐を通り抜けた」


「どこで」


「どっか」


 アオイは不敵に笑った。

 ユウは天を仰いだ。


 訓練されていない一般人は約5Gでも気絶するだろう。

 ましてや今はユウという同乗者がいる。

 むちゃくちゃだ。


 乱流に入った瞬間、船体が鳴った。金属の呻き声みたいな低音。ユウが思わずシートのアームレストを握る。アオイは操縦桿を微調整しながら、渦流の壁に沿ってハウンドドッグ号を走らせた。


 理論的に存在しない操縦だ。物理法則に反しているわけではないが、即興でできることではない。長年の身体記憶と、今この瞬間の船の音と振動を全身で読む能力が要る。


 三分十秒後、乱流を抜けた。客船が視界に入る。


「この操縦は——」


「理論的に存在しねえって言いたいんだろ。分かってる」


「でも今やりましたね」


「あったりまえじゃん。あたしを誰だと思ってんのよ」


「寡聞にして知りません」


「……」


 アオイはなんだこいつ、という顔をしながらも牽引ケーブルを射出して客船に接続する。同時に損傷した脱出艇の状態を確認。三基が使用不能、残り二基は使えるが片方は定員オーバー。


「ユウ、脱出艇の積載配分を計算して。あと通信室を乗っ取って乗客全員に指示を出してほしい」


「は、はい」


「落ち着いて丁寧にやって。パニックを起こさせないように」


「分かりました」


 ユウはタブレットを切り替えた。手が少し震えていたが、指は正確に動いた。声も、通信越しに聞くとわりと落ち着いていた。十四歳の子供とは思えない声のトーンだった。


 三千二百名の脱出誘導。牽引しながら乱流を避けて離脱。帰還まで四時間半。


 途中、何度か危機があった。牽引ケーブルが一本切れた。客船の補助エンジンが火を噴いた。それでもユウが計算して、アオイが操縦した。二人とも余計なことを喋らなかった。


 宇宙港に帰還したとき、すでに夜明けになっていた。第七区画の蛍光灯はまだ点滅していた。


 ドッグから降りて、アオイは伸びをした。首の骨が鳴る。肩も鳴る。腰も少し痛い。


「全員生きてる」


 ユウが乗客数を確認しながら言った。アオイは返事をしなかった。


 船内に戻ったユウが、通路で立ち止まった。


 壁一面の写真。


 整然とした、静かな場所。ハウンドドッグ号の中で、ここだけ空気が違う。何千枚もの写真が、日付も順序もなく貼ってある。子ども、老人、家族、一人の男、笑っている女。宇宙各地の、名前も知らない人々の顔。


「これ全部……」


「ああ、あたしが助けた」


 アオイが通路の向こうから答えた。声のトーンは変わらない。


「なんで飾ってるんですか」


 アオイは少し考えてから言った。


「あたしが生きてる証拠」


 ユウは何も言えなかった。


 写真の壁の一角に、空白があった。何枚か貼れていない場所。ユウはそこを見て、それから見ないようにした。


「みんな助かったんで、降ろしてください」


「後で」


「後でって——」


 アオイはコクピットに戻っていた。新しい信号が入ってきていた。


「信号鳴ってるじゃん」


「降ろしてください!」


「だから後で」


 ハウンドドッグ号が動き出した。


 後でというのは永遠に来なかった。ユウは今度は助手席の上着と空き瓶を膝の上に乗せたまま、強制的に相棒になった。なってしまった。


 ユウは胃薬を取り出した。アオイのポケットから落ちていたものだ。銀河救助局の標準品。


「これ、誰にもらったんですか」


「うるさい」


「……」


 ユウは胃薬を丁寧に袋に入れて、アオイのジャケットのポケットに戻した。


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