3-01
重い地響きが迫ってくる中で、彩音とナナシは、万魔殿の通路を駆け回っていた。
「もうっ……なんでいっつも追ってくるのよっ!」
彩音が不満を露にするが、地響きは止む気配を見せない。
彩音達は今、例の大男に追い回されていた。再三に渡る逃亡劇に、さすがのナナシも気疲れを隠し切れないのか、走りながら深い溜め息を吐いている。
「おねえちゃん、よっぽどアイツの好みだったのかな? 捕まっちゃったら、もうとんでもないことされちゃうかもよ?」
「こ、怖いこと言うの、はあっ……やめてよっ! 絶対に捕まらないんだからっ!」
「あははっ、そうだよね。うん……よーしっ」
その時、ナナシが逃げていた足を止め、大男と向かい合った。まさか、と振り返る彩音の悪い予感は、見事に的中してしまうこととなる。
「おねえちゃん、また僕がアイツを引き付けるからさ、その間に逃げてよ。今回は、ゆっくり自分の部屋まで逃げればいいんじゃないかな」
「な、ナナシくんっ! 無茶はしないって約束っ……」
「あははっ、うん、出来るだけね。それじゃ……いってきまーすっ!」
気合を入れるような一声と共に、ナナシは大男の大きな股下を滑り抜け、向こう側へと到着する。ナナシは自身のお尻を叩きながら、挑発するように大男を呼ばわった。
「ほらほら、こっちだよーっ! 捕まえられるもんなら、捕まえてみろーいっ!」
ぴょんぴょんと目立つように飛び跳ねて、自身の存在を主張するナナシ。そろそろ逃げ出すかと、大男に背を向けようとした彼だったが、しかし――
「グル、ル……ウゥ?」
大男は追っていかず、挑発するナナシと立ち尽くす彩音を、交互に見比べていた。その眼はどちらのほうがより捕らえやすそうか、好みであるか、吟味している捕食者のようだ。
二人が再三に渡って見比べられた後、ついに判決が下される。
「……ヴォアァァァァァ!」
どうやら大男は、彩音のほうをお気に召してしまったらしい。
「きゃ、きゃあーっ! ちょ、ちょっと、ナナシくんっ!?」
抗議の声を上げる彩音の瞳に、大男の向こう側で手を振るナナシの姿が映った。
「おねえちゃん、ごめーん! 自力で何とか自分の部屋まで逃げてー!」
「……そ、そんなこと言われたって、そんなの……」
弱気になる彩音だったが、〝理性〟を持たない大男は待ってくれない。
「グルルゥ……」
「……もぉ! ナナシくんのばかぁ~!」
踵を返し、彩音は駆け出すことしか出来なかった。
「はぁっ、はぁっ……ど、どうしよう……」
何とか自分の部屋まで、と言われたものの、複雑に入り組んだ通路で、しかもいまだに住み慣れない場所を駆け回っているのだから、迷ってしまうのも無理はないだろう。
「……ていうか、私、かなり遠いところまで来ちゃったんじゃ……」
多くの部屋が立ち並ぶ通路へ来るたび、自分の部屋は果たしてどこであったかと、彩音は毎回頭を悩ませる。ナナシはよく迷わないものだ、と変な感心までしてしまうほどだ。
「ヴォオオオォォォォ!」
と、のん気に感心している場合ではなかったことを思い出す。
とにかく逃げなければ、と駆け出した彩音の視界に、見覚えのある人影が映る。部屋へ入ろうとしているその人は――〝心〟を失ったという、あのリリエラだ。
リリエラも彩音に気付いたのか、粛々と頭を下げてきた。
「こんばんは、彩音様――」
「リリエラさんっ、お願いっ! 中へ入れてっ!」
「はい、かしこまりました」
特に問答の一つもなく、リリエラは自室の扉を開いて彩音を招き入れた。大男の迫ってくるのが見えたのか、リリエラ自身もそそくさと室内に足を踏み入れる。
廊下に響く大男の雄叫びが近づいてくることはなくなり、ようやく危機を脱したのだと、彩音は安堵の溜め息を吐いた。
落ち着いて息を整えた彩音が、おもむろにリリエラの部屋を眺める。この中世の城にも似た万魔殿にあって、少しばかり装いの古めかしいこの部屋は、相応しい佇まいを醸し出している。置かれている家具も、彩音にしてみれば馴染みは無いが、中世か近代の貴族が使うような物とさえ思えた。
ふと見つけたのは、大きな鏡台の上に置かれた、絢爛な額縁に飾られていた写真立て。その中央の写真はセピア色に染まっており、精悍かつ凛々しい面立ちの青年の姿が写っていた。
「……この人は……」
「私の夫だったお方です」
彩音の口からぽろりとこぼれた呟きに、リリエラが間髪入れず答える。
夫『だった』とは、どういう意味なのだろうか。リリエラが万魔殿に住み着くことになったのと、もしかしたら関係あるのだろうか。
本当は、聞くのも躊躇われるような話だった。それでも彩音は、なぜだかそれを知りたい気持ちに駆られた。もしかしたら万魔殿に居続けていることで、感覚が少しばかり麻痺しているのかもしれない。
「リリエラさんは、どういう経緯で――この万魔殿へ来ることになったの?」
「……私の過去のお話でしょうか?」
「あっ、ご、ごめんなさい! 話したくなかったら、別に」
「まず、私が〝幸せ〟を失った時の話からになりますが、よろしいでしょうか?」
「えっ、あっ、はい。……り、リリエラさんが、いいなら……お、お願いします」
「はい、かしこまりました。あれは、私が――」
無表情のリリエラは、特に何か気にする様子もなかった。彩音にしてみればペースが掴みにくくもあるが、それはともかくと、リリエラの話に耳を傾けることにする。
リリエラは淡々と己の過去を語り始めた。それこそ、どこかの他人の話でもしているかのように、抑揚なく、ひたすら淡々と――




