2-12 第二幕ラスト
机の前にある椅子に座って、彩音はにこにこと口元だけ微笑んでいた。対角線上ではナナシが、肩を震わせてベッドの上で正座している。
「……そ、それであの、おねえちゃん」
「ええ、なにかしら? ナナシくん」
「……ま、まだなんか、怒ってる?」
「うふふ、まさか。別にぜーんぜん、最初から怒ってなんてないわよ?」
一周回って落ち着きを取り戻した……ように見えなくもない彩音に、ナナシが恐る恐る両手を合わせて拝むようなポーズを取る。
「ごっ、ごめんね、なんかあの、気に障ったなら、謝るからっ!」
「……はぁ、別にいいわよ、もう。……本当に襲われたって、それはそれで困るし……」
「ん? 襲うって?」
「な、なんでもないわよっ」
いつもの調子に戻った彩音を見て安心したのか、ナナシが正座していた足を崩しながら、改めて身を乗り出して質問を再開する。
「で、で、おねえちゃんの後ろのさ、机の上にあるそれって、なんなの?」
「……あ、CDプレイヤーのこと? これは、まあ……こういう物よ」
言いながら彩音がスイッチを押すと、ほとんど同時にプレイヤーから音楽が流れ始める。電気がどこから通っているのかなど疑問は湧いたが、どうせ聞いたところで理解できるような答えは返ってこないだろうと判断し、彩音はその件について言及しなかった。
ともあれ、今は眼前で目を輝かせているナナシの相手をする必要があるだろう。
「なっ、なにこれっ、音楽? どこから出てるの? この小っちゃな箱の中に、誰か入ってるの? 前に誰かが持ってた、オルゴールってやつと、全然違う! すごいすごい、なにこれっ!」
無邪気にはしゃぐナナシに、くすり、と彩音もつい失笑する。ナナシは次から次へと、見たことのない物への興味を露にした。
「これは? この、上からぶら下がってるヤツ。どうやって灯りついてるの? 火……とはなんか、違うよね? この紐、なに?」
「これはね、ほら、その紐、引っ張ってみて……軽く、よ?」
「えっ、う、うん……わっ! 灯りが消えたっ! わっ、引っ張ったらまた点いた! ど、どうなってるのーこれっ!?」
ナナシは幾度となく、垂れてきている紐を引っ張り、灯りを点けたり消したりを繰り返す。そのたびに眩しくて彩音は目を細めたが、その行為を咎める気にはなれなかった。
彩音の世界では当たり前のことも、この少年にとっては新鮮な驚きに満ち溢れているのだろう。なぜだか、それが鮮明に伝わってくるのだ。
不思議の国に迷い込んだように室内を見回していたナナシが、輝く目で次の標的を見つける。
「じゃあ、じゃあ……あっ」
「あっ、ナナシく――」
彩音が呼び止めようとするより早く、ナナシは〝それ〟の前へと歩み寄った。
その――大きなピアノの前へと。
「これは? この黒い大きな――」
「さ、触っちゃダメッ!」
思わず大声を出してしまい、彩音は左手で咄嗟に口元を押さえる。ナナシもさすがに驚いていたようで、完全に身体が硬直してしまっていた。
凍りついた空気の中――彩音が、苦し紛れに口を開く。
「……ば、爆発するわよ」
「え、ええっ!? そ、そんな危ない物なの!?」
「危ない、物……そ、そうね、そうよ。指を挟んだりして、怪我しちゃうことだってあるんだから。あんまり触ったりしないほうが、いいんじゃないかしら……?」
普通ならあまりにも無理のある誤魔化し方だったこともあり、彩音は完全に目を逸らしていたが、ナナシは素直に受け止めた。
「そっかー……じゃあ怖いし、おねえちゃんの言う通り、触らないほうがいいね。でもさ、そんな危ない物なのに、この部屋にあるっていうことはさ」
ナナシはただ、悪気など一切なく、ひたすら素直に言葉を紡ぐ。
「これはおねえちゃんにとって、大事なモノなんだね」
その一言を受け、彩音は凍りついたように、身動ぎ一つ出来なくなる。やっと答えることが出来たのは、数秒の間を置いた後だった。
「――ちっ、違うわよっ!」
否定する直前、彩音は返事を躊躇ってしまった。自身も明確にそれを理解していたから、思わず眉根を顰めてしまう。即答できなかったのが、なぜだか彩音には腹立たしくて仕方なかったのだ。
そんな彩音を見て、ナナシは怪訝そうな表情をする。
「今のおねえちゃん、アスモデウス様に何を失ったのか聞いた時と、同じ表情してたよ」
「……えっ?」
「見たのは一回きりだけどね。その時、何て答えられたのかも、もう忘れちゃったし。でも……」
いつも明るい少年の表情が、少しだけ沈んでしまう。
「なんていうか、悲しそうで……だけど、怒ってるようにも見えてさ。やり場がないっていうよりも、自分のことを怒ってるような、そんな風に見えたんだ」
「…………」
「まあ次に会った時は、いつもの適当なアスモデウス様に戻ってたんだけどね。あはは」
そう言って笑うナナシだったが、どこか無理をしているようにも見える。それを彩音が察していたのに気付いたのか、ナナシは軽く頬を染めて目を逸らした。
「あーあ、なんか疲れちゃったなぁ。あ、そうだ! 今日は、おねえちゃんの部屋で寝てもいい?」
「……えっ、えっ? ちょ、ちょっと、なんで……」
「ふあぁ~あ……おやすみなさーいっ」
彩音の返事は聞かず、ナナシはベッドへと思い切り飛び込んだ。二、三度と寝返りを打ってから、落ち着く場所を見つけたのか動きが止まる。
「うーん……ふっかふか……ぐぅ~」
「……もう、勝手なんだからっ」
――だけど、と彩音は思う。
リリエラも、とても人とは思えないあの大男も、猫でさえも、そしてあの大悪魔のアスモデウスも――誰もが、大切な物を持っていたのだ。
そして、それを失って――そうしてまで、ただ生きてなど、いられなくなってしまったのだ。
そしてそれは、きっとこの、ナナシも同じ。
もしかしたら、ナナシは〝寂しい〟のではないか、と彩音は思った。漠然とだし、そうとばかりも言えない気はするが、それでもこの少年だって〝何か〟を失ってここにいる。
「う~ん……ムニャムニャ」
彼は今、どんな夢を見ているのだろうか。ベッドの横側に座った彩音が、寝息を立て始めたナナシの頭を、左手でそっと撫でた。
彩音がナナシの横に――若干の距離を空けてだが、出来るだけ音を立てないように気をつけて寝転ぶ。
この日はなかなか寝付けなかったが、それでもやがて、疲れた頭には無意識の帳が徐々に下りていった。




