2-11
「よいっ……しょっ、っとぉ!」
渾身の力で、カーテンを勢い良く閉めた。
一仕事を終えたというように、ナナシが手の甲で額を拭う。
「ふう……これでよしっ!」
ああ、ナナシの言う通り、これで怖いものを見なくて済むように――
「――って、根本的な解決になってなくないっ!?」
相変わらず取り乱しっぱなしの彩音に、ナナシはきょとんと呆けていた。
「え? いやあ、ここから出られるわけじゃないし、あんなのどうしようもないし」
「で、でも……アスモデウスさんに、知らせなくていいの? きっと今だって、攻撃されてるのよっ?」
「ああ、大丈夫、大丈夫。さっきの鳥人間が万魔殿の中まで入れた試しがないし、放っておいても大丈夫って、万魔殿の主のアスモデウス様が言ってたんだもん」
胸を張って言い切ったナナシに、彩音は思わず唖然としてしまう。
「……な、なんで、そんなに気にしないの……? ナナシくんも、アスモデウスさんだって……いくらなんでも、おかしいわよぉ……」
情けない声を出す彩音だが、ナナシは相変わらずの調子だった。
「うーん、アスモデウス様に聞いても、生きるために必要な〝何か〟を失ったのか聞いた時と同じでさ、聞くたびに変わるんだよねー。犯した〝罪〟のためだとか、受けるべき〝罰〟のためだとか、ただ単にアスモデウス様が〝悪魔〟だから攻撃してくるんだとか、この万魔殿の存在が〝規律〟に反するからだとか。まあ、適当に言ってるだけかもしんないけどね」
「…………」
無言でナナシの話を聞いていた彩音が、唐突にうずくまり、手の平で顔を覆った。
「ふ、ふえーん……も、もぉ、やだぁ~……みんな、変なんだもん……変なんだもん……」
「あっはっは、そりゃそうだってば。生きるために必要な〝何か〟を失ってる人しかいないんだもん。変じゃないほうが、珍しいんだと思うよ? あはは」
「ふえぇん……笑いごとじゃないわよぅ……ばか、ばかぁ……」
軟体化してしまったように、彩音は弱々しい声を上げ続ける。
しかしそこでナナシが――いつもとは違う、やや低めの声を発した。
「ところでさ、僕のこと、やっと部屋に入れてくれたね」
「……えっ?」
いきなり何を言い出すのかと、彩音が思わず顔を上げる。そこに立っているナナシは、いつもとは雰囲気が違うように思えた。
先ほどの《顔のない天使》の件――慌ただしくとはいえ、彩音は確かにナナシを呼び、そしてナナシはそれに応えてここにいる。
しかしそれは、もしかすると、大きな間違いだったのだろうか。
「ずっと、気になってたんだけど――おねえちゃんの心の準備が整うまでは、仕方ないかなって、我慢してたんだ。でも、こうしておねえちゃんの部屋に入れたんだから……もう我慢する必要なんて、ないんだよね――」
「な、ナナシ、くん? っ……」
ナナシくんと、くん付けで呼ばれる彼は、だけど本当は彩音よりずっと長い時を生きてきたのだ。それを思い出した瞬間、彩音は全身の毛がよだつのを鮮明に感じた。
年端もいかない少年の顔が、どことなくいやらしく、大人びて見える。その顔に〝男性〟を意識してしまった彩音は、背筋に何か疼くものが走るのを感じた。
「い、いやっ……な、ナナシくん、落ち着いてっ……!」
「えっへっへ……ダメだよ。僕、もう我慢なんて、できないんだからさぁ……!」
じりっ、と一歩、ナナシが足を前方へと踏み出す。彩音は逆に足を一歩引くが、後方は既に壁際だった。逃げ道の無いことを理解し、彩音が震える左手で胸元を押さえる。
一歩、また一歩、ナナシが足を前に出した。
「ま、待って、ダメ……ナナシくん、やめてっ!」
「ふふっ……そういうわけには、いかないよ」
「そ、そんなっ……」
じりじりと後ずさる少女――距離を詰めるのは、少年の姿をした〝男性〟。
そしてついにナナシは――勢い良く、飛び掛かっていった。
「い、いやぁっ――!」
ナナシは、彩音よりよほど力が強い。それはいつも万魔殿を案内され、その手に引っ張られている時に、常々理解させられている。あの小さく細い体躯のどこから溢れてくるのか、その力は彩音を捻じ伏せるくらい、いとも容易く行えるだろう。
「あぁ……」
ただひたすらに、彩音は目を閉じて耐え抜くしかないのだ。その溜まりに溜まっていたという彼の情欲を――あらん限り受け止めるしかないのだ。
「いやっ……」
――と、ここまでどれくらいの間、そんなことを考えていたのだろうか。
「だめぇ……って」
彩音は、ふと気付く。飛び掛ってきたはずのナナシの身体が、しかしいつまで経っても彩音と接触しないことに。
「……? ん? ……あれ? ナナシく……んん~?」
恐る恐る彩音が目を開くと、そこに確かにナナシはいたのだが――
「わーっ! なにこれなにこれ! 机の上に見たことない変な箱があるっ! わっ、この上からぶら下がってるの、どうやって灯りが点いてるの? 火なんてないのに、すごいや!」
何やら部屋の中にある物を物色し、それぞれに素直な興味をぶつけている。
取り残された彩音が、おずおずと片手を上げて、自己の存在を主張した。
「……あの、ちょっと、ナナシくーん?」
「わーっ! お布団ふっかふか! なんかイイ匂いもするっ!」
「…………」
「あっ、おねえちゃん、その机の上にある箱って……あの、おねえちゃん?」
一人ではしゃぎ回っていたナナシが、ようやく彩音の様子が変わっていたことに気付く。
声を掛けられた彩音は、にこりと会心の笑みを見せながら口を開いた。
「ねぇ、ナナシくん……あの、なんていうか、こう……チョップしていい?」
「……えっ、なんで?」
「もう、思いっ――っきり、していい?」
「い、いやだよー! 痛いじゃないっ!」
「いいじゃないのよ。ちょっとくらい痛いほうが、むしろいいわよ。いいでしょ? いいわよね? いい以外は認めないんだからね?」
「お、おねえちゃん、目が据わってるよ! 僕、なんか悪いことしたかなあっ!?」
笑顔の彩音はその質問に答えず、その直後、ナナシの叫び声だけが響いたという。




