第26話 魔術講義後(イリス)
訓練室を出たあと、
イリスは廊下の壁際で足を止めた。
すぐには歩き出さない。
癖のある茶髪が、汗を含んで首筋に触れる。
指で払ってから、呼吸に戻る。
呼吸を数えて落とす。
肩の力を抜く。
指先の熱を消す。
――大丈夫。
手のひらに、まだ感覚が残っている。
一撃防護の膜だ。
出力は弱い。
範囲も狭い。
剣術の訓練場なら、頼りないと言われる厚みだ。
それでも、落ちなかった。
符石が起動して、室内の流れがずれた時も。
周りの術が落ちたあとも。
薄いまま、同じ形で残った。
派手ではない。
強くもない。
ただ、落ちない。
イリスは、それでいいと思った。
前線で必要だったのは、
上手さじゃない。
出るか。出ないか。
落ちるか。落ちないか。
それだけだった。
だから欲張らない。
強くしない。
端折らない。
呼吸。
姿勢。
手順。
手順を崩さない癖は、
物心つく前から身についていた。
教官の言葉が、頭に残る。
――落ちないのは、手順が崩れていないからだ。
当たり前のことだ。
でも、その当たり前を言葉で区切られると楽になる。
魔術が下手なのではない。
条件が合っていなかっただけ。
なら、次にやることは一つだ。
戻る。
手順に戻る。
廊下の向こうで、足音が止まる。
ガルドが立っている。
剣を鞘に収め、静かに周りを見ている。
その先に、エルネストがいる。
少し離れた場所。
何もしていないのに、足が半歩ぶん前を取っている。
あの人は、前に出てしまう。
剣術でも、魔術でも、
間に合わなければ前に出る。
止まれないのではない。
止まらない。
前線では、それが必要だった。
誰かが前に出なければ、列は持たなかった。
イリスは知っている。
だから、否定できない。
けれど、ここは違う。
ここでは、
前に出なくて済む形を作れるかどうかが見られている。
剣は揃えられる。
魔術も揃えられる。
揃えば、
前に出る回数は減る。
イリスは手のひらを握って、ほどく。
膜の感覚は薄いまま残っている。
落とさない形を選んだ。
厚くする代わりに、崩さない。
前に出る人が、戻れる場所を残すために。
イリスは、
呼吸を乱さないまま、歩き出した。




