救出
謡は歌い続け、やがて疲れたので歌うのを止めた。
変な感じがする、胸騒ぎ。庭に面する障子を開けると、あの神除けは無かった。何があったのか。
「どうなってるの?」
謡は不思議に思って恐る恐る手を差し出す。本当なら焼けるような痛みがあるだろう……しかし、何も起こらない。
これは好機。逃げるべきだ。謡は部屋を見回して小袖を羽織る。さすがに白小袖一枚では外に出られない。本当なら動きやすい、いつもの装束が良かったが。本当は掛けられている打掛を着て行きたいと思った。だが、せっかく征四郎が選んでくれたのに、置いていくのは忍びないが、逃げ出すのには邪魔だ。
謡は庭に向かって足を踏み出そうとしたところで……。
「どこ行くの?歌は終わったようだけど」
後ろから声が掛かった。太朗だった。びくりと身体が強張った。
「逃げられないと言ったよね?謡、俺の妻になるんだよ」
さっと腕を掴まれる。細い腕は掴まれて痛みが走る。
「何を言っているの?貴方はそれでいいの?皆を裏切るの?」
謡は腕を掴まれながらも、睨んで太朗に抵抗する。
「仕方ないんだよ。俺は朽木家の養子だから、父の言いなりになるしかない。それがたとえ謀反だと分かっていても諌める力は俺にはない」
初めて知った事実だった。
まだ、間に合うのかもしれない。葛藤があるのなら、助けられる方法も見つかるかもしれない。
「まだ間に合うわ!貴方は私を屋敷に招いただけ、という事にすればいいじゃない。太朗どのしか父上を止められないの!私なんて価値がない神よ、だから、お願い、父上を止めて」
太朗は一瞬怯んだように見えたが、やはり掴んだ腕を緩めることは無かった。
「遅いんだよ、もう。父は岩月と手を組んでいる。俺には止められない。巻き込んでしまって悪いと思うが、どうせ誰を妻に娶っても同じだ。それなら神で美しい謡を妻に欲しい」
真剣な眼差しには揺るぎがない。腕を引かれ、まだ広げられたままだった褥の上に引き摺られるようにして押し倒された。抵抗したため足を擦ってしまい、痛みが走る。怖い……!今度こそ身を奪われると感じ、手足をばたつかせ抵抗する。
「やめて!太朗どの!」
大声で叫ぶが誰も出てこない。
「無駄だよ。謡が俺の妻になるのは屋敷の者が全員が知っている。誰も近づいてくるなと言い含めてあるからね、先に既成事実を作ってしまえば、こっちのものだ。他に嫁に行けなくなるだろう」
そんな!謡は太朗の胸を精一杯押したが、びくともしない。いつもの力を使おうとするが、頭が混乱して、思うように力が出ない。何で!こんな時に。力を使えば、少しは太朗を止めることも出来るはずなのに。何とも読めない表情が怖さを倍増させる。震えが全身を襲う。
「助けてっ!誰か!」
「無駄だって言ってるのにさ、往生際が悪いね」
にやりと笑った太朗の目には怪しく揺らめく炎が映し出され、太朗の本気を一層引き立てた。
謡の首筋に太朗は顔を埋めた。太朗の息と体温が直に伝わる。
触れられた場所は熱さを感じるのに、身体は震えが止まらない。
「いやあっ!」
「足掻いても無駄。大丈夫、優しくするよ」
太朗は一度、顔を謡の首から離すと笑顔を向けた。しかし、その後、再び首に顔を埋めて甘く吸いたてる。そして、両足の間に太朗は自分の身体を割り込ませ、手は襟の合わせから差し入れられようとしていた。
今度こそまずい、このまま太朗の手に落ちてしまうのか。謡は怖さから目をぎゅっと瞑った。
その時だった。乱暴な足音が庭先から聴こえ、近づいてくる。そして、部屋の前で止まると、がらりと障子が開けられた。
「謡っ!」
聴きなれた声だった。その瞬間に太朗が怯む。謡はその隙を見逃さず、身体を起こして、声の主に駆け寄った。今まで力が入らなかった身体なのに、安心したからか不思議と力が入った。
「征四郎どの!」
征四郎はどこをどう入ってきたのか、至る所に擦り傷や血が滲んでいるところがあった。そんなことはお構いなしに、謡を腕の中に抱き留める。
太朗とは違う優しい腕の中で、安堵のため息を漏らした。
「大事ないか?心配していた……無事で良かった」
征四郎は謡を力強く抱きしめる。腕の中にいる謡に確かめるように顔を覗き込む。謡も征四郎を見上げて頷いた。だが、一方で状況は変わらない。征四郎は腰に差していた刀を引き抜く。金属音がした。そしてそれを太朗に向けた。
「何故こんなことをしたんだ。謡をどうするつもりだ」
太朗は刀を差していなかったために一歩下がるが、怯む様子は無かった。征四郎は謡を放し、後ろに隠すように庇うと、太朗に刀を向けたまま一歩前に出る。
「征四郎に言うつもりはない。彼女を返してもらおうか。征四郎一人じゃ何もできまい」
どこまでも謡を手に入れないといけないのか。父に対する思いだけで、ここまで人の心は動くものなのか。謡は驚きながらも征四郎の背中に隠れた。だが、太朗はそこまで落ちてはいない……助ける手立てはないものか。
「征四郎どの!太朗どのを傷つけないで!」
謡の言葉に征四郎は驚きながらも、ちらりと後ろの謡を窺う。
「どうして!?謡はこんなことまでされたんだぞ!」
怒りを露わにする征四郎。
先ほどまで押し倒されていたじゃないか!謡の首筋には太朗が付けたと思われるうっ血した跡が残されている。悔しい。だが、謡の縋るような目に、苦々しい表情で舌打ちをした。
その時、三人の元へ騒ぎ立てる人の声が耳に届いた。ばたばたという足音と叫び声。静が呼びに行った援軍が到着したようだ。その音を聴きながら、征四郎は刀を握る手に力を込める。
「殿も知っている。ここは、もう軍に取り囲まれている。終わりだよ、太朗」
「まだだ。俺が残っている。意思は受け継がれている」
杉戸を開けて逃げようとするが、それを征四郎は許さなかった。
バン!っと戸が抜けるような音を立て、征四郎が襖に刀を突き刺した。太朗は真横に刃が刺さり、息を飲む。
「逃がさない。もう終わりだって言っているだろう」
征四郎が刀を引き抜き、太朗の首元へ向ける。謡はいつ太朗が切られるのかと思うとハラハラと落ち着かない。自分を攫って傷つけようとした男だが、今まで里に来ていた時の太朗はとても人当りの良い優しい人だった。何よりも征四郎とあんなに仲が良かったのに、争う姿は見たくなかった。笑い合っていた二人……その光景は羨ましい限りだった。
謡はスッと息を吸い込んだ。
「朽木太朗重政っ!止まれ!」
謡が太朗の真名を口にする。長い時間捕縛する力はないが、一瞬だけ動きが止まった。
征四郎はその隙を見逃さず、太朗へと詰め寄る。
「もう一度言う。終わりだ」
征四郎が告げる。太朗はその言葉を聞くと、足元からがっくりと崩れ落ちた。
「終わりか……。そうか、それならそれで仕方ない。どうせ私はこんな事をしたのだから切腹は免れないだろうな」
ぼそりと呟く。それはどこか安堵したようで、仕方ないような感じがした。
すぐに部屋の障子が勢いよく開けられ、静と数人の兵が入ってくる。静の表情は面をしていて分からないが、いつも冷静な静が息を切らしているのが慌てていたことが分かった。
「征四郎!勝手に一人で突入して!」
静は征四郎を咎めたが、征四郎は全く気にも留めないようだった。
「謡の悲鳴が聞こえたんだ、待っていられるかってんだ」
刀を向けながらも静に軽口を叩く。
「朽木太朗重政、烏間うた姫を誘拐したとして捕える」
征四郎は腹の底から出したような低い声で兵に命じると、兵は太朗を捕えて出て行った。もう太朗は謡を見ようとはしなかった。
謡、征四郎、そして静は太朗が連れて行かれる様子を見送った。謡はそのまま座り込んだ。力が抜けたのだ。
「ありがと……二人とも」
謡は力なく礼を言った。だが、まだ庭の方では刀がぶつかる金属音が聴こえる、まだ、終わっていないのだ。
「征四郎、終わるまでそこにいろ。私が行った方が早く終わりにできるだろう」
静はそのまま庭へと駆け出す。静の力を使えば、屋敷の者を怪我をさせることなく捕縛できる。口を割らせるならば、その方が都合良かった。
「縛!」
遠くで静の声が聴こえた。結構な人数がいるらしく、何度か静の声が響く。
「気を遣いやがって、しずかのヤツ」
征四郎は静が出て行った方をちらりと見たが、すぐに謡に顔を向けた。謡は自然と涙が出た。
「会いたかった……!」
ほっとして、征四郎の身体に飛びついた。怖かった。太朗に触れられた時に感じた嫌悪感とは全く違う安心感。自分の気持ちが違うだけで、身体に触れることがこんなに違うなんて。
「無事で良かった」
征四郎も抱きしめ返す。征四郎の身体からは土埃と男らしい汗の臭いがしたが、そんなことはどうでも良かった。触れられた喜びで胸がいっぱいになる。
「助けにくるのが遅くなって、ごめん」
征四郎は腕に力を込めて謡の存在を確かめるように、抱きしめた。その感触すらが嬉しい。そして恐怖から抜け出したことで、自然と頬を涙が伝った。
「俺も……会いたかった。どれだけ探したか……」
その言葉だけで十分嬉しかった。探してくれたのだ。あの薬を飲んだ時に見た光景を思い出したが、自分に会いたかったと告げてくれた、それが嬉しかった。
「謡は絶対に大丈夫だと信じていたよ……だけど、良かった」
謡の髪に顔を埋めて、抱きしめる。吐息が掛かり、少しくすぐったい。
「結局はさ、しずかの力を借りたんだけどな」
面白くなさそうに言ったが、それは事実なので征四郎は謡に伝えた。
「どうやって、しずかに伝えたの?」
征四郎は顔を上げた。
「そりゃ、中之宮まで俺が行って……」
だからか……だから、こんなにボロボロになってしまったのか。あの山道を登って走って伝えてくれたのか。見ると掌は擦りむけ、膝も血が滲んでいる。こんなになってまで……!謡は征四郎からそっと離れた。
「傷だらけ。熱でも出たら大変だから、水で洗いましょう」
謡が征四郎の掌を両手で包んだ。
「いいさ、それほど大したことないから。大丈夫だ。それより、城へ戻ろうか」
もっと触れ合っていたいと思ったが、友であると言ったからには、自分の気持ちには蓋をしなくてはならない。謡は頷いた。
征四郎は謡の背中に手を回すと、開け放たれた庭に面した縁側から外に出た。謡は何も履く物がないため戸惑っていると、捕縛を終えた静が駆け寄ってきた。ぱっと、征四郎が手を離す。ふいに離れてしまい、寂しさを感じた。本当ならば、もっと安心したい、征四郎の腕の中で。しかし、静がいる。それを征四郎もわきまえているのだ。
「うた……無事で良かった」
そう言って、謡を抱きしめる。征四郎と同じく力強く抱きしめられたが、太朗と違って静に対しても嫌な感じは全くしなかった。静は履物がない謡を軽々と抱えた。そのまま城へ戻るらしい。その様子は征四郎も見ていたが、何も言わなかった。ずきんと胸が痛む。
「屋敷の者は全員捕縛したな!よし!戻るぞ」
征四郎が指揮を任されているのか、その場の兵が「は!」と返事をし、屋敷の外へ連れ出していく。その中には太朗の父、そして、太朗の姿もあった。何とも言えない虚しさが溢れる。
城へ戻ると抱きかかえられていた謡は静にそっと降ろされた。お凛が待っていて、嬉しそうに微笑みながら涙を袖で拭っていた。すでに空は東から白んできている。ずっと心配させていたのかと思うと、申し訳なく思う。
「御無事で何よりです、姫さま」
「心配かけて、ごめんね」
お凛は首を横に振って何も言わなかった。
「うたを休ませてやってくれないか。疲れているだろうから」
静がお凛に告げると、頭を下げて「はい」と返事をした。
「しずかは?しずかも休んでいないでしょう?」
「大丈夫だ、私も少し休んだら晴明と話をしなくてはならない、それほど休んでいる暇もない。何しろ、大神さまに内緒で出てきたのだから、早く戻らなければ」
謡は驚いて静を見つめた。あの真面目な静が大神に言わずに、ここに来ているということか。もうすぐ皆が起きだして、朝の儀式を行うが、その時に静がいなければ騒ぎになるだろう……。それも覚悟して自分を探し出してくれた、そう思うと咎めを受けなくてはならないのは自分の方だと思う。静に迷惑をまた掛けてしまった、きっと、藤など罵るに違いない。謡は申し訳なくて俯く。
「ごめん、私のせいで」
静は蚊の鳴くような声の謡の頭に手を乗せた。優しく撫でる。
「気にするな。心配だったから来たんだ」
面をしているが、静ははにかんだ微笑みを浮かべているようだった。
謡、征四郎、静……他の者たちにも……長い夜がやっと終わったのだった。




