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フレーム・エンド -世界の壊し方-  作者: だいなま
一章 ロイとコンブ
7/9

#7 オニさんこちら!

新#7 オニさんこちら



「でっかい湖……」


 一ヶ月をかけ、峻嶺をふたつみっつ越えてようやく開けて見えたリトリアという街では、肩を寄せ合う民家の隙間を縫って、強くとも心地よい風がしょっぱいような匂いを運んでくる。


『海じゃバカタレ』


 ロイは、海を見るのは初めてだった。


 サレムの南を塞ぐ壁は、確かにあった。到底越えられないだけの高さも、確かにあった。

 ただ、ロイたちが辿り着いたころには、その根元がひとところ、内側から食い破られていた。檻から溢れたものたちが、我先にと通った痕だった。列は途切れず、形の揃わないものたちが順番に穴をくぐっては、まず空を見上げた。

 ロイはその列の尻尾に並んで、壁の外へ出た。誰も、ロイを振り返らなかった。

 エドガーの「南に行け」は、つまりこういうことだったのか。それとも、もっと別の何かか。考えるのは、やめにした。


 軽口を聞いたのは久しぶりだった。この一ヶ月、コンブと交わした言葉は数えるほどしかない。

 あの夜のことは、ふたりとも口にしなかった。コンブが街の心臓を止めた経緯も、置いてきた犬耳の女のことも、ナイフごと掴まれた手首の感触のことも。訊けば答えたのかもしれない。ただ、先に口を開いた方が負けみたいな沈黙が、峠をみっつ越えるあいだ、ずっと続いていた。


 港へ向かう下り坂の途中、漁師のような風貌の男とすれ違った。男はロイの顔をちらりと覗くなり、すぐに苦い顔をしてそっぽを向いた。足を止めるどころか、より速足で。

 賞金首だと認識したからではない。ただれた火傷跡を見て、気味悪がっただけだ。


 港町は王都とはまるで違う、平穏で長閑なところだった。

 警報は鳴っていないし、店にシャッターはおりておらずどこも繁盛している。人々は当たり前に行き交っていた。

 その誰もが、ロイを目で追わない。



 桟橋の方までくると、船が見えた。帆を畳んで停まっている漁船、山のように荷の積まれた貨物船、観光用の帆船。どれも魅力的だったが、別に興味があるわけではなかった。

 ロイが足を止めたのは、巨大な壁と見紛うほどの旅客船だった。行き先は、レグナリア国内ではない――外国。


 まあ、痣を焼いたところで戸籍がにょきにょきと生えてくるわけもなく、正規の出国審査を通れるわけがないが。


『こんだけデカい旅客船なら、忍び込んでもバレなさそうじゃ』

 巨大な船腹を見上げるコンブがそう言う。実務の話になると、コンブの舌は今まで通りに回った。それ以外が、回らないだけで。


 それを聞いてにやりと口元を歪ませたロイは、桟橋をゆっくりと進んでいく。


 旅客船が出るのは、明後日の朝らしい。船着き場の掲示板の前でしばらく粘って、それだけ盗み見た。

 日が暮れるまで倉庫街の影で時間を潰すことにした。積み上がった木箱の隙間は狭くて薄暗く、潮と古い木材のにおいで満ちている。隠れ家としては悪くない――少なくとも、あの地下水道よりは……。



 夜も更けた桟橋、夕暮れ頃まではちらほらと集まっていた船を待つ人混みもいなくなり、入れ替わりの海外からの観光客が小さめの客船一隻ぶん、トランクを引きずって続々と降りてくる。

 父親らしき男が子供を肩車して長い長い上り坂の終点を指さしていた。子供は歓声を上げて、隣で母親が笑っていた。


 桟橋には常夜灯が等間隔に並んでいて、黒い水面へ光の縞を落としている。人影はもう無い。さざ波が船を揺らし、その静かな音と共に足元をより軋ませる。


 ふと、弱々しく点滅していた常夜灯のひとつが力を失った。

 びゅう、と少し強めな風が吹きつけてきたかと思うと、消えたばかりの灯かりの隣で力強く光を放っていたはずの常夜灯も、それに続くように力を失った。それから順に、桟橋の上のすべての常夜灯がドミノの如く消えていく。


 最後のひとつが、ロイの頭上で力尽きた。

 時を同じくして――吹きつけてきていた突風が止んだ。否、止んでいない――潮の匂いを纏う風はいつの間にか角度を変えて、真下から空へと昇っていく。街灯が煽られ、足元の砂粒がぱらぱらと浮き上がっては、夜の闇に溶けてなくなった。


 風に導かれるようにして、ロイは顔を上げる。



『白き冠あるところ、災いは芽吹く――』



 脳裏に浮かぶのは、八年前の火の海。

 巨大な旅客船の上に座る影はただひとつ。幾何学の仮面を身に着けていた。ところどころ機械音の漏れる声で――


『我が名は、六道(リクドウ)


 教会に置き捨てた仮面は、ちゃんとえさになったらしい。


「――見つけた」

 ロイは腰に携えていた短剣を抜き、仮面に向かって投げ放っていた。リトリアに着くまでに盗んできた代物だ。

 闇を切り裂き、狂いなく幾何学の模様へと突き進む刃は、すんでのところでその勢いを殺された。

 六道は二本の指で挟むようにして短剣を受け止めていた。


「お前のせいで……!」

 仮面を睨む瞳にはありったけの殺意が込められていた。もう、周りなど見えていない。

 気づけば、さっきまで確かに見えていた月明りが雲に隠されていた。ときおり紫電を迸らせる雷雲は、ロイの感情に呼応するかのように頭上で吠え続けた。


 六道は手首を返し、受け止めた刃を正しく握り直す。直後――船の縁から飛び降りて、桟橋を揺らしながら着地した。


『また、この雲に救けてもらうのか?』

 ラジオのようなノイズをかすかに纏った声が、そう短く告げる。


「……何の話だ?」


『包囲網を破ったあの落雷によって、どれだけの死者が出たか知っているか?』


 ロイの脳裏に浮かんだのは、王都の裏路地だった。無数の銃口とカーディナル・レヴナントの声――その頭上では、いまと同じように雷雲が弾け続けていた。


「運が悪かったな」


 レグナリア王都は、天候を主なエネルギー源とできるほど緻密に気象を制御している。とはいえ、それは絶対的なものではない。システムがエラーを起こすことは珍しくない。


『お前のせいで、な』


「……は?」


 ロイの困惑に乗じて、六道は短剣を握り踏み込む――その速度はロイの反応をわずかに上回っていた。刃の切っ先はロイの頬を掠め、薄く切り裂いた。

 咄嗟に飛び退いたロイは転がるようにして受け身を取り、すぐに立ち上がった。


 ロイは殺意に満ちた視線で、六道を刺し続ける。


 桟橋の入り口側、長い坂のふもと付近で、甲高い警笛が鳴った。

 振り返ると、常夜灯の消えていない街の中で、憲兵が三人、銃口を向けてきていた。


 続いて、左にも、右にも――続々と憲兵が集まってくる。包囲されたときの憲兵と同じ、濃紺の制服だった。全部で、十人といったところ。


「ちっ……!」

 ロイは迷わず六道に対し背を向け、走り出した。




◇◆◇




 そこから先は、逃走劇と呼ぶには一方的すぎる展開だった。


 路地裏を縫って街の外を目指せば、そこに憲兵が三人ほど固まって待ち伏せしていた。

 意表を突いて桟橋付近に身を隠そうとしても、憲兵が待ち構えていた。

 ならば、と偽名を使って安宿を借りても、鍵を閉める前に憲兵が上がり込んできた。


 気持ち悪いのは、毎回似たような顔ぶれだということだ。全員同じというわけではないにしろ、数えるのも億劫なほど何度も同じ兵の顔を見た。


「リアルタイムで監視されてるとしか思えないんだけど」

 あたりをきょろきょろと見回し警戒を続けながら、ロイは民家の隙間を進んでいた。


 コンブに監視カメラを見つけたら必ず注意するよう言いつけて、開けた交差点をその先の狭い路地まで突っ切ろうと助走をつける。

 広めの道路へ飛び出した、その一瞬のことだった。


『よけろ!』


 爆炎がロイの視界を覆いつくした。アスファルトを噛み砕き、まばらな形状の石ころを散らす――舞い上がった煙を掻き流すようにして現れたのは、深紅の髪の憲兵だった。

 熱風が顔を殴りつけ、周囲では看板や旗が燃え、焦げた。


 ロイは腕で顔を庇いながら爆炎の中で受け身を取った。


 憲兵は、熱気からは考えられない冷光を放ちながら、ロイの方へとその掌を掲げた。

 差し出した掌の先、何もなかった空間に光の円環が浮かび上がる。細い線がひとりでに走り、紋様を編み上げ、複雑な魔法陣を空中に描き出した。

 次の瞬間、陣は脈打つように輝き、その中心から灼熱の奔流が撃ち放たれた。


「……!」

 再び炎が視界を覆った。爆ぜ、砕け散る道を強引に突っ切って、向こう側の路地へと進入する。乾いた破片が頬を掠めて、火傷跡がじりじりと痛んだ。


「あれはまさか……“魔術”……?」

 政府が直接発行する免許により、決められた状況下でのみ魔術の行使が許される。憲兵でその免許を持つ人材なんて、この国にも数十人しか居ないはずだ。


 あの憲兵は深追いしなかった。背後を確認しても、追ってくる様子がなかったのだ。


 もう脳内で逃走ルートを組み立てている余裕はなかった。適当な道を進み、適当な角を曲がり――疲れたら、身を隠すために適当な廃ビルへ。とんでもない遠回りをしているんだろうが、関係ない。

 その廃ビルに人の気配は全くなく、今にも朽ち果てそうな風貌だった。


「監視カメラは?」


『一個たりとて見んかったぞ』


 一階、二階、三階――。

 安堵し、階段を一段ずつ上っていく。できるだけ上の階を目指して。


 四階、五階、六階。

 階段は錆びた鉄でできていて、足音は気味の悪い不協和音を奏でる。

 上の階に登るにつれて、だんだんと雨漏りがひどくなっていくのが分かった。


 屋上が近い。


 七階、八階、九階――そして、屋上に続く扉が見えた。窓の外には、このビルと同じくらいの高さのビルが遠くまで続いている。これを伝って行けば、監視を逃れながらこの街を脱出できるだろう。


 ロイが扉を蹴り開くと、夜風が一気に流れ込んできた。それを背に受けるようにして、ひとつの影がロイの視界に映る。月明りが雲に隠れているせいでよく見えないが――その髪は、赤みがかっていた。


「……おかしいだろ? ……なんでだよ」

 ロイは完全に硬直し、動けなくなっていた。実際に、ありえないからだ。

 魔術を使うあの憲兵と初めて対面したのは、さっき道路を横切ったとき。それは、数分前のできごとだったはずだ。


 容赦もなく、憲兵のかざした掌に灼熱の炎が現れた。屋上を薙ぎ、解き放たれる魔術はロイの足元へ着弾した。


 熱と衝撃が胸を打ち、視界が白く弾けた。体重が持ち上がり、背中から地面に叩きつけられても衝撃は死なず、そのまま屋上の縁を越えかけた。

 足場が無い――。ロイは反射的に手を伸ばし、屋上の縁を掴んだ。


「ぐ……!」

 身体は完全に外に投げ出されている。片腕だけで体重を支え、爪がはがれそうになりながらも、必死に堪えた。


 しかも運悪く、ビルの連なる方ではなく、道路側へと投げ出されているのだ。落ちれば、間違いなく死ぬ。

 ロイが顔を見上げると、憲兵がこちらへ手をかざしているのが見えた。


 虚空に魔法陣が展開され、そこから魔術が放たれた。

 炎の弾はロイの捕まっている場所を豪快に削り、その勢いのままアスファルトまで飛び、爆風を巻き起こした。


 そのまま巻き込まれれば、地上に落ちるころには生肉ひとつ残らない――はずだった。

 コンブがそれを躱させたのだ。


 宙ぶらりんになったロイの足を伝い、ひとつ下の階へ侵入したコンブは、人型に変身し――魔術が直撃する寸前、ロイの足を引っ張り込んでいた。

 ロイは埃塗れの床に落っこちて、激しく咳き込んだ。頭のすぐ上、割れた窓の外を爆風が舐めていく。天井がびりびりと震えてから、細かい砂とも埃ともつかない塵が降ってきた。


『生きとるか』

 獣型に戻ったコンブが、よろよろとロイの胸に這い上がってきた。

 ……なんか焦げ臭いと思ったら、コンブの髭の先が少しだけ焦げていた。


「なんで、屋上で待ち構えてたんだよ。アイツ……」


 交差点で魔術師と出くわしたのはほんの数分前。屋上を伝うことを決めたのは、そのさらに後だ。誰にも言っていない。口にすらしていない。ロイの頭の中にしかなかったはずの逃走経路を、読まれていた。


 先回り――待ち伏せ。思い返せばずっとそうだった。

 ロイの行動を捕捉し続ける方法なんて、どこにも無い。そのはずだ。


「……あー」

 もう、考えるのも面倒くさい。


「やーめた」

 軽い口調でそう言って、ロイは床に背中を預けた。

 考えるだけ無駄だと、そう思わせるほどの理不尽さだった。どの道を選んでも、先に憲兵が居るのだから。八年間、フル回転させることで逃げ続けられた頭を、こんな風に棚に上げる日が来るとは思わなかった。


「もういいや」

『……』


 どうせこの部屋にいることもバレる。ロイには到底わからないような方法で特定される。なら来ればいい。魔術師のすぐ真下に、ロイはいるのだから。

 バカタレ、のひとつくらい飛んでくると思った。

 コンブは何か言いかけて、口を噤んだ。小さな黒い目がロイの顔をじっと見つめて、そのあと、ロイの胸の上で丸くなり、寝息を立て始めた。

 叱られる方が、まだ楽だった。



 三分が経った。

 一向に憲兵は現れない。


「おかしくない?」

 眠っているコンブの頬をつついて、そう投げかける。

「僕、いま最高に無防備なんだけど」


『全然来んのう』


 身を起こして立ち上がると、コンブが床へ落っこちた。


 窓の方へ身を寄せ、外を覗き見ると――爆炎の跡地、クレーターのようにへこんだ場所を、あの魔術師が覗き込んでいるのが見えた。


「……もしかして、バレてない?」


 半ばあきらめかけていたのに、一筋だけ希望が垣間見えた気がした。動かず、ただじっとしているだけの賞金首だ。監視されているのだとすれば、見逃すはずがない。

 ……“監視”されているなら。


「カメラ、本当に一個も無かった?」

『おん』

「尾行は?」

『わしの鼻を疑うんか』


 ロイは天井を見上げる。そのまま視線を動かし、部屋をぐるっと一周させた。やはり、それらしきものは見当たらない。


 そういえば、憲兵は一度もロイを探していない。ロイの行く先に予め居ただけだ。ただただ、待っていたんだ。

 現在の位置が分かるなら、探す。追う。この廃ビルだって、部屋をひとつずつ潰していけば済む話だ。なのに、来ない。


 奴らが視ているのは、ロイの現在ではない。


「…………未来、か?」


 口に出してみると、さほど馬鹿げては聞こえなかった。それだけ、ロイの脳は疲弊していたのかもしれない。

 伝承に聞く“六道”はもっと馬鹿げている。天候を書き換えるだの、あらゆる生物の特徴を持つだの、神話めいたものばかりだった。

 ――あらゆる生物の特徴。サレムの檻を思い出して、少しだけ笑えなくなった。

 なら、未来を見る奴がいたっておかしくはない。


 ロイの口にしたセリフがよほどおかしかったのか、コンブは大げさに笑った。

『同じことじゃろう。未来が視えておるならなおさら、位置が分かるはずじゃ』


「それだよ」


 六道は、今のロイが視えていない。一向に踏み込んで来ないのだから、そう考えるしかない。

 そういえば、待ち伏せはいつも外だった。開けた交差点、桟橋、屋上――。

 思い返せば、六道は最初から高い場所に居た。船の上に座って、こちらを見下ろして――。


『宿はどうなんじゃ。あれは屋内じゃったぞ』

「宿に入るって決めたのは、外を歩いてたときだ。踏み込まれたのは、鍵を閉める前――予知が立ったのは、僕がまだ外にいた時点ってことになる」


 未来予知の条件って、案外詰まらないものだったりするのだろうか。標的を、視界に入れないといけない――とか。


 じゃあ、なんでいま、誰も来ない。


 魔術師が屋上で待っていたのは、「ロイが屋上を伝って逃げ切る未来」が視えたからだ。だから、妨害した。妨害した瞬間、その未来は消えた。ロイは予定に無い部屋へ転がり込んで、それきり誰の視界にも入っていない。

 視えていた未来が変われば、その先は視え直すまで分からない。視え直すには、もう一度ロイを視界に収める必要がある。

 だから待ち伏せは、いつも外だった。介入で未来が変わる瞬間のロイを、見張っておくために。


 仮説は穴があるから仮説だ。ただ――この気持ち悪い先回りの精度を説明づけられるのは、いまのところ予知だけだった。


 クレーターで死体を探っていた憲兵は、ようやく逃げられたことを飲み込んだようだ。これだけの威力の魔術でも、死体が残らないなんてあり得ないからな。


『で、どうするんじゃ。逃げる方法なんぞ思いつかんぞ』

「まずは、仮説の答え合わせから」


 外に出た瞬間、また未来を視られるかもしれない。長考する猶予は、誰の視界にも入っていない今だけだ。

 既に、ロイの頭の中では一枚の台本が完成しつつあった。


「もう一回、屋上に出よう」

『……正気か、おぬし』

「外に出て、また先回りされてたら――この仮説は当たりってことになる」


 外れなら、待っているのは銃口だ。分の悪い答え合わせだが、どの道この部屋で干からびるのを待つ気は無い。


 階段へ向かう前に、台本の最後だけ口にした。

「途中で、コンブを投げる。多分、魔術師のところに」

『……』

「頼める?」

『……半日は、かからんじゃろうな』

 コンブは、外套の中の定位置へ自分から潜り込んだ。


 外で、憲兵が頭を掻きながらロイの居るビルへと足を踏み出した。死体が無いことから、このビルに居る可能性が高いと考えたのだろう。


『来よったぞ』

「もう行くよ」


 錆びた階段を駆け上がる。屋上への扉は焼け焦げたまま開いていた。長方形の枠の向こうで、不穏な雷を迸らせる黒い雷雲が藍色の夜空を覆いつくしていた。

 そのままビルの屋上から次のビルの屋上へ飛び移るようにして、一直線に街の外を目指す。外套の中の重みを確かめて、さらにギアを上げた。


 そのとき、うなじの産毛がぞわりと逆立った。血の気も引くほどおぞましい視線がロイを確かにとらえている、そんな感覚。

 ――視られた。これで、予知は繋がり直したはずだ。


「ここまでは、順調だな」


 止めた足をもう一度動かし、ロイは次のビルへと飛び移った。そして、よっつめに飛び移ったくらいだろうか。次に見える屋上の上に憲兵が三人、銃口をこちらへ向けて構えていた。やはり、早すぎる。偶然そこにいたなんて言い張れる配置ではない。

 仮説どおり――介入、一度目。

 ロイは進路を変えない。速度もそのまま、銃口の待ち構える屋根へ向かって、まっすぐ――。


 介入で、未来はもう一度変わった。いま六道に視えているのは、その先の未来――憲兵の手前でロイが屋上から飛び降り、ビルの隙間を壁伝いに降りて逃げ切るところまでだ。

 そこまで視えているなら、もう対策は打ってあるはず。例えば――


『下にもおるぞ!』


 さっきまでクレーターで死体を探していた、魔術を扱う憲兵。そいつがビルの下、開けた道路の方からロイの姿を捉えていた。

 二度目の介入。この瞬間、また未来は枝分かれする。分岐の先は、視え直すまで誰にも分からない。仮に視え直したところで、一秒足らずで駒は動かせない。

 ――この一瞬だけが、六道の台本の外だ。


 ロイは外套の中のコンブを掴み上げ、自分がビルの隙間を飛び降りるよりも先に地上に向け投げ放った。魔術を使う憲兵の視線はロイ――つまり頭上に釘付けになっている。

 その直後にロイも飛び降りると、頭上で銃声が弾けた。


 中空に全身を投げ出されたロイに向け、地上の憲兵は掌をかざしている。その周囲で、魔法陣が脈打つ。円環を編み上げ、複雑な紋様が宵闇の空間を照らし出した。


 その背後に、一匹のハムスターが居る。全身の筋肉が膨れ上がり、人の形を成し――赤毛の憲兵の腕を、背後から掴み上げた。

 狙いを失った炎は角度を変え、闇を焼きながら、憲兵のいる屋上へと着弾した。噴き上がった熱風はわずかにロイの元まで届いた。憲兵の姿が爆炎に呑まれて消え、その悲鳴は聞こえたかどうかすら分からなかった。


 ロイが地上に足を着けたとき、人型のコンブが赤毛の憲兵の首を背後から締め上げていた。憲兵の目が微かに充血しているのが分かった。憲兵はもがくが、やがて瞳から光が抜け、それきり気を失った。


「意外と不便なもんだな、予知って」


 視線を上げると、そこにはいつの間にかあの男が居た。魔術の着弾した屋上の向かいにあるビル。その屋上に、幾何学の仮面を付けたまま立っている。

 何度見ても思い出すのは、八年前のこと――。そいつへの明確な殺意はいくら経っても目減りしない。


「……ようやくお出ましか」

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