#5 澄み切った善意
街へ入る前から、奇妙な振動を感じていた。地面が途切れることなく細かに揺れているのだ。街へ近づくほどはっきりと聞こえてくる駆動音と同じリズムで、靴底から微かに脳まで震わせる。入り口をくぐったころには、街全体が脈動していると見紛うほど強い振動になっていた。
レグナリア王都最南端――“サレム”。
海へ出るには、まず王都を南へ抜けなければならなくて。正規の街道には検問があって。一億ドルの賞金首が、通行証を出して歩けるはずもなくて。残された道は、憲兵すら近寄らないこの街を突っ切ることだった。
通りのど真ん中に、機械が生えていた。三階建てほどの黒い筐体が石畳を割って鎮座しており、ほかの建物がそれを避けて建っている。筐体から伸びた配管は屋根を跨ぎ、壁を貫き、別の機械へ繋がっていた。どこまで歩いても、その繰り返しだった。
表通りに並ぶ露店は例外なく、筐体に背を向けて商いをしていた。盗品らしき銀食器の隣で、血のこびりついた短剣が売られていた。その向かいでは、まだママにおんぶされていそうな子供が、たばこを咥えて客引きをしている。
“治安が悪い”とは違う。罪を罰するものが、なにも存在していないだけだ。警察も、憲兵も。
少し歩くと、筐体の裏側が見えた。地下から一部だけ伸びるコンベアの上で、太いベルトが軋みながら回り続け、等間隔に、錆びた鉄製の檻を筐体の中へ運んでいた。
檻の中は、暗くて見えない。
大通りを半分ほど進んだところで、道がふさがれていた。カラの酒樽を二つ並べて、その間へ鎖を一本渡しただけの、簡素な関所。その前に、五人の男がたむろしている。うちのひとりが、ロイに目を留めた。値踏みするように近づいてきて、
「おまえ、その左頬、どうした?」
「……ただの火傷だよ」
「痣ァ焼き潰して、自由人のフリか?」
まさか――そう思う暇はなかった。背後から感じた気配に、ロイは咄嗟に身を沈める。頭上で、太い腕が空気を抱え込んだ。
ロイは距離を開け、ナイフを抜いた。
抜いたと思ったが、掌の中にナイフは見当たらなかった。
乾いた音がして、その場所に目をやると、ロイのナイフが転がっていた。刃先が何度も石畳を蹴って、甲高い音を立てる。
「麻酔だ。死にゃしねえよ」
「運が悪けりゃ三日は動けなくなるがな」
男たちは笑いながら、眼前へと迫ってくる。
ロイの膝が地面に崩れ落ちた。腕には、細い切り傷がある。麻酔弾が掠ったのだろう、痺れはそこを中心に波のように広がっていく。
迷わず、ロイは逃げた。痺れ始めた足を引きずって、機械と機械の隙間、大人の肩幅では入れない谷間へ、身体を捻じ込んだ。背後で罵声が聞こえたが、構わず配管の下を這った。
枝分かれする配管、ぬかるんだ地面、虫だらけの路地――抜けたところで、目の前が開けた。目の前に、半壊した筐体があった。口を大きく開いたまま、あらゆる配管が引き千切られて、とうに死んでいる筐体だった。
内側には、爪痕や歯形、血痕が残っていた。
「三日か……」
掠っただけだというのに、指先は既に握る力を忘れている。
おそらく、関所の連中にロイの正体はバレてしまった。じきに街中に広まって、騒ぎが起こるだろう。麻酔の効果が収まるころには、街中が敵になっていると考えた方がいい。
「コンブ。南へ抜ける道、探してきて」
『おぬしを置いてか』
コンブは襟から出てきて、機械の連なりをまじまじとみていた。配管の束が、全部同じ方向へ流れている。その先を目で辿って、何か言いかけて、やめた。
コンブの鼻がないと、ロイは敵襲に気づけない。麻酔の響く体では、抵抗もできない。それでもロイは、発言を撤回しない。
『……半日で戻る』
◇◆◇
南下するほど、機械は密になった。配管という配管が束ねられ、太くなり、一方向へ吸われていく。やがて、周りからほとんど建物が消えて、機械ばかりになった。振動と駆動音も、もはや地震と区別がつかない。
コンブは遠くの筐体に登り、見下ろした。この街のすべての管は、ここへ呑み込まれている。街全体がひとつの工場だとするなら、ここはその心臓だ。
そこは王都の国道すらも路地に見える程広大な道が二本交差していた。中心には隕石でも呑んだような沈み込んだ地形があり、その中心に、地下からひとつ筐体が覗いている。通りで目にした筐体どもの親玉だった。大きさも、中から轟く音も、一拍ごとに大地を持ち上げるよう。周りの配管はこれに接続されている。心臓とはいえ送り出すための管はひとつもなく、取り込む一方だった。
穴の縁に火が焚かれていた。篝火がふたつ、間に詰所らしき小屋。周りには、人影が十あまり。
コンブは目を疑うより先に、鼻を疑った。革。銃の油。糊の利いた布。この街のどこにも無かった臭いが、そこにだけ揃って立っている。
憲兵だった。胸にレグナリアの国章を着けたままの。
この街において、あの装備は全員共同の財布と同義だ。銃一挺、外套一枚、剥いで流せば当分は食っていける。十数人ぽっち、夜が三度も明ければ骨も残らない。
なのに――生きている。火まで焚いて、隠れもせず、道のど真ん中で。
国章を目にするのは、この街へ入ってからこれが初めて。しかもそれは磨かれて、篝火を撥ね返していた。
クレーターに塞がれているせいで、この交差点は通れない。すこし離れた路地を抜ける必要がある。
北の道から、妙に意識を惹かれる足音がひとつ混ざり込んできた。
そいつはもちろん人間で、男で、丸腰だった。武器どころか軽い装備すらつけていない。この街を、Tシャツとスウェットだけ身に着けて歩いているのだ。
誰何の声は飛ばなかった。銃口のひとつも向かない。年かさの、目が痛くなるほどの勲章を制服の胸に縫い付けた将校の正面で、男は止まった。ふたりして、クレーターの縁に並ぶように。
「大総統に要請は送ってくれたか?」
「……送った。しかし、返事が来るわけがない」
会話は駆動音にかき消されてしまいそうだったが、コンブの耳には届いていた。
「八年来なかっただけだ。諦めるには早すぎる」
身軽の男はそう言いながら、顎をわずかに上げた。ずっと俯き気味の将校とは、正反対だった。
「アウレリオ」
将校は俯いたまま首を回して、クレーターを覗き込む。
「俺たちは、いったい何を守っているんだと思う」
アウレリオと呼ばれた男は、そこで初めて視線を落とした。将校に倣い、クレーターの中へと。
「さあな」
数秒の沈黙を経て、将校が口を開く。「何の用だ」と、それだけ。
「近頃、視線を多く感じるようになった」
アウレリオは続ける。
「福祉会、銀狼同盟、ノクターン……どの組織かは知らんが、何か企んでいることは間違いない」
聞き覚えがあった。どれも、犯罪組織の名だ。
「死ぬなよ。おまえが死ねば、この街は本当に終わりだ」
将校の言葉に、アウレリオは会釈すら返さなかった。
詰所らしきプレハブから、山のように物が積まれた荷車を、ひとりの若い憲兵が押してきた。アウレリオは荷車を預かると、そのまま押し、来た道を戻っていく。
交差点の脇を貫く路地に入ったところで、アウレリオは足を止めた。そこに、人がいたのだ。十人ばかりが破れた布や新聞紙を巻いて、焚火を中心に身を寄せ合っている。頬のこけ方は揃って病人のそれなのに、顔色だけが妙にいい。
アウレリオが荷車を壁に寄せると、火の周りがざわめいた。
アウレリオは荷車からひとつずつ弁当らしき箱を取り出して、路地裏の住民に配っていく。箱は明らかに頭数よりも多かった。
ひとりあたりひとつ、アウレリオは箱を配り終えると、わずかに標高の下がった荷車を押し始める。路地の、更に裏の方へと。
コンブは、一部始終を見ていた。
この街へ来て初めて目にする、“善人の可能性”を。
配管の谷が続く、ひとけの絶えた道。コンブは、その真ん中へと先回りした。やがて姿を見せたアウレリオは、行く手を阻むように仁王立ちするハムスターを前に、迂回するように進路を変更した。
『待て』
がた、がた、と一定のリズムを刻みながら軋んでいた車輪がぴたりと止まった。
アウレリオはきょろきょろと辺りを見回すが、周りには誰もいない。三度確認して、幻聴を疑ったのか自分の耳を擦っていた。
『下じゃ』
視線が降りてくる。道路の中央線に堂々と佇む毛玉を、男はしばらく無言で見下ろしていた。
「……喋った?」
『驚いとる暇はない。急ぎの用でな』
「いや、しかし……」
アウレリオはまじまじとコンブを見つめ、それから台車の持ち手を地面に置き、その場にしゃがみこんだ。
「聞こう」
『この街を南へ抜ける道を探しとる』
「南部に行きたいと?」
『そうじゃ』
「無い」
男は即答した。
「サレムと南部の境界には、到底越えられないような高い壁がある。憲兵が攻めてこれないように、サレムの犯罪組織が築き上げたものだ」
男の顔が、男自身が持つ灯かりに照らされた。その左頬には、見慣れた形の、火傷の痕があった。
『おぬし、その火傷』
「……昔の話だ」
拭い去るように、アウレリオは自身の左頬をさすった。忌々しい過去を思い返すときの、ロイと同じ目だった。
『なんか、おるぞ』
コンブの鼻を、神経が斬りつけられるような獣の臭いが刺した。そして、乱れた足音が複数、機械からなる喧騒をかき乱した。
「離れてろ、ねずみ」
コンブが示した方を振り返ったアウレリオが、立ち上がりざまにそう言った。
灯りも持たない七つの影を先頭に据え、アウレリオを中心にして無数の影が円形を成した。
中でもとくに強い臭いを放つ先頭のひとりは、つややかな黒の長髪のうえに、深くフェドーラを被っていた。
「アウレリオ」
フェドーラの女は、確かめるように名を呼んだ。
「今日で終いだ」
アウレリオは雑に灯かりを放り捨てると、立つ場所を選んだ。飯の詰まった箱たちのそばから遠ざかって、フェドーラの女と向き合う。
「もう、諦めろよ。ルチア」
口火を切ったのは刃物ではなく、輪の外周に紛れていた短銃だった。乾いた音が三方の筐体に跳ね返って方角を失うころには、アウレリオは弾道から半身ぶんだけ外れて、群れのいちばん濃いところへ自分から踏み込んでいる。仲間ごと撃ち抜く度胸まではあるまいと、群れの質を見切った上での位置取りだった。
主を失った初弾はそのまま夜を突っ切って荷車の縁を抉り、崩れた箱から誰のものにもならなくなった飯の湯気が、車輪の陰のすぐ横へ散らばった。加勢の意思など端から無い。この体では流れ弾の一発が砲撃と同義だということを、砕けて頬を掠めた木片があらためて教えてくれた。鉈が唸り、鎖が鳴り、得物の持ち主たちは触れられた順に石畳へ沈んでいく。アウレリオは終始掌ばかり使って拳をいちども握らず、沈める深さもきっちり急所の手前で揃えていた。
篝火の方角から警笛がひとつ裂けて、「アウレリオの生存を最優先とする」という将校の号令が、守るべき交差点から遠ざかる無数の足音とひと繋がりになって乱戦へ雪崩れ込んできた。
「聞いてねェぞ、憲兵が敵とはよォ」
「黙って前を見な」
低い女の声がそう応えた次の瞬間には、先頭の七つが景色から抜け落ちていた。消えたと見えたのは単に速さのせいで、ひとつは四つ足で石畳を掻き、ひとつは配管の壁を水平に駆け、すれ違われた憲兵が鎧ごと悲鳴を上げて宙を舞う。振り向いたそれの目は、縦に裂けていた。輪の統制はそこで千切れて、行き先を選ばない銃声が夜のあちこちで弾け始めた。
中心では、黒髪の女がアウレリオと向かい合っていた。初速はコンブの目でも拾いきれず、遅れて届いた風圧に置き去りにされたフェドーラだけが、ゆっくりと落ちていく。帽子の下から立ち上がったのは犬のそれとしか言いようのない三角の耳で、腰の後ろでは同じ毛並みの尾がひと振りし、首の周りだけが真冬の襟巻きみたいに真っ白い毛で膨らんでいた。
「――!?」
アウレリオは一瞬だけ硬直したが、すぐに持ち直し、フェドーラの女と距離をとった。
フェドーラの女には、この前までロイも持っていた痣と見分けがつかない漆黒の痣が、左頬に刻まれていた。
「ルチア……おまえ、いったいなにをされた?」
半日で戻るというロイとの約束の針は、いまも進み続けている。潮時だった。
荷台の車輪の陰に隠れていたコンブは雑踏の靴底を横跳びですりぬけ、騒動から抜け出そうとした。そんな毛玉の鼻先に――なまぬるい風が降りた。
風ではなく鼻息だと分かったのは、風の根源を見上げたときだった。
山のような巨体の男が、滝みたいによだれを垂らしながらコンブを見下ろしていた。握りこぶしほどもある湿った黒い鼻がひくひくと蠢いている。かぎづめみたいに先端が細く黒く伸びている指先が、コンブの胴を壊れ物でも扱うみたいな慎重さで拾い上げた。目線の高さまで持ち上げ、黒い鼻をひとしきり鳴らしてから、山は口を開く。
「おれたちと、同じ臭いがする」
地響きの底から届く声で。
「……だれに作られた?」
張り詰めていた全身の筋肉が氷水をかけられたように弛緩した。
ぶる、とコンブの全身の毛が逆立った。弾けるように筋肉が膨れ上がり、次いで首から下がみしみしと音を立てて隆起し、前足は太い腕に、腹は硬く締まっていった。小さな身体は瞬く間にその場にいる全員の背丈を追い越していく。人の形を得たコンブは齧歯の頭だけを残し、その巨躯は武人の肉を詰め込んだみたいに、五本爪の戒めを内側から弾き飛ばした。
着地からの先手はコンブが取った。取ったはずだった。渾身の張り手は分厚い胸肉に阻まれ、お返しの一発は見えていたのに避けられず、避けられなかった理由を考えるよりも先に二撃目によって肋骨を叩き折られた。
背中から地面に転がされ、二度転がったところで、人型はほどけた。骨も筋肉も皮もおかまいなしに収縮して、ちっぽけな毛玉に戻っていくのを、山は追撃もせずに見下ろした。
「出力が低すぎる」
落胆ですらない、検品みたいな態度。
「所詮、“S”か」
S。たかがアルファベット一文字を耳にして、コンブはぎりぎりと歯を食いしばった。
「ここに居るキメラは全員、“V”以上だ」
山のような男の全身が、先のコンブと同じように膨れ上がった。茶色の毛皮に全身が包まれて、猛獣のような顔つきに変化していく。
男は、クマと合成されたキメラだった。
クマは、コンブの首の後ろを二本の爪で摘まんだ。ロイがからかい半分で摘まみ上げるときと同じ持ち方だった。
「Sシリーズは檻から出てはいけない。それが決まりだ」
憲兵も参戦し、本格的に混沌化してきた戦闘の渦中へ背を向けて、クマは南へ足を踏み出した。
サレムの中心、巨大なクレーターは、すぐそばにあった。地下に沈んだ筐体の親玉は、依然として地震のような駆動音を響かせている。
クマは窪地の縁を降り、外殻の整備口へ無造作に指を掛けた。厚い鉄板がボルトごと飴のように曲がって口を開け、噴き出した生温い空気が、混ざってはいけないもの同士の混ざった臭いを孕んでコンブの鼻を殴る。この鼻が、いまばかりは呪わしかった。
暗がりでは、蠢いていた。指の多すぎる手が内壁を掻き、途中で終わった翼が開く形だけを繰り返し、並びのおかしい目がいくつも、いっせいに光の方を向く。壁という壁を埋める爪痕と歯形は、表通りで死んでいた筐体の内側と同じものだった。
放り込まれれば死ぬ、と結論するのに知恵は要らなかった。あれは収容の口ではない。餌の、投げ入れ口だ。
「還れ」
クマの肩が引き絞られ、コンブの体は放物線の入り口へ投げ出された。
抵抗できる場所は、空中にひとつしか残っていない。コンブは口の先へ迫った管の束に前足を伸ばしたが――こんな短足では当然届かない。残った体力のありったけを注いで膨れた。摘まむだけだった前足が丸太の腕へ育ち、その握力と、投げの勢いと、膨れ上がった目方のぜんぶが、とある一点に掛かる。
ぶちり。
筐体の親玉に接続されている配管が一束、根元からちぎれた。
行き場を失った管はコンブというおもりを吊り下げたままクレーターの中へ垂れた。そこは、鉄格子を通して筐体の内部が鮮明に見通せる位置だった。
街へ入るずっと前から一度も途切れなかった駆動音が跳ね、つっかえ、裏返って、サレムの地面すべてを支えていたあのリズムが、初めて足をもつれさせる。そこへ内側から殴る音が重なり、掻く音が膨らみ、抉じ開けられたままの整備口から指の多すぎる手が二本、四本、すぐ数えきれない本数だけ生えて――外殻が、内側から裂けた。
溢れ出したものを言い表すのに、コンブは「うじゃうじゃ」以上の言葉を持っていなかった。形の揃わないものたちが押し合いへし合い、裂け目を我先にと押し広げながら、湯気の立つ夜の街へこぼれていく。
そして、街の心臓が止まった。
初めて聴くサレムの静寂は一拍きりで、次の拍からは、獣とも人ともつかないうめきが幾百と重なって、空いた場所を上から塗り潰していった。
コンブはすぐに身体をしぼませて、ちぎれた配管を伝いクレーターの外へ抜けようとした。
「……やってくれたな、欠陥品」
真上で、クマが待っていた。鼻息を荒くして、充血した目でコンブを睨んでいる。
『……ロイ』
相棒は麻酔のせいで動けない。そんなときに、こんな化け物たちが暴れたら。
取り返しがつかない。
『わしは、半日で戻ると言うたんじゃ』
コンブは、クマのことを強く睨み返した。
◇◆◇
突然、街の脈動がやんだ。この街へ入ってからというもの、骨の髄へ響き続けていたあの振動が、つっかえ、裏返り、それきり途絶えたのだ。あたかも自分の心臓が急に黙ったように感じ、その空白へ流れ込むように、獣とも人ともつかない声が遠くで幾重にも湧きあがった。
半壊した筐体の陰で、ロイは壁に背を預けたまま、その静けさを聴いていた。麻酔は峠を越えたらしく、指はもう感覚を取り戻してきている。立ち上がりかけた膝はまだ三歩分の信用も置けないが。癖で胸元へ伸びた手が、そこにあるはずの温もりを半日前から預けたままなのを、今更のように思い出させる。遅い、とはまだ口に出さないことにした。
迷いのない足音がひとつ、一定の速さでまっすぐに近づいてきていた。ロイは鞘から短剣を抜き放って構えようとするが、震える指先が柄を取りこぼし、甲高い音を鳴らした。今日、この音を聞くのは二回目だった。
それを拾う間もなく、配管の切れ目から足音の主が顔を見せた。
その顔を見て、ロイは拾うことを忘れた。
そこに立っていたのは、ロイだった。顔立ちや髪の色、背丈に至るまで、酷似していた。ただし、左頬には痣も火傷も存在していない。その差が、目の前にあるのは鏡ではなく他人だと教えてくる。
「……この麻酔、幻覚作用でもあるのか?」
「ああ。俺も一瞬夢かと思ったよ」
男は短剣を拾い上げて、指先だけで器用にくるくると回した。慣れた手つきだった。
「俺はエドガー。おまえとは、他人だ」
名乗りはそれだけだった。ロイの頭を埋め尽くしていた多種多様な疑問符を、彼はひとことですべて忘れさせた。
「“世界の壊し方”を知りたいか?」
ぞくり、と背筋を麻酔とは別のものが這い上がった。
夜明けの誰もいない道端で、外套の毛玉へひとこと漏らした、それきりの言葉だった。壁から耳が生えていようが、空に目がついていようが、拾いようのない小さなできごとだったはずの。
「……教えてやってもいいぜ」
エドガーはロイを見つめた。じっくりと炙るような観察。
ロイの一瞬のためらいを、エドガーは見逃さなかった。
「なんだ。つまんねぇ」
エドガーは口角を持ち上げ、湿度のない笑みを見せた。
「『世界を滅ぼす災いに為ってやる』――だったか? 俺たちはその台詞にほれ込んで、お前にたいそう期待したんだが、こりゃあ……」
エドガーは一度だけ、言葉を途切れさせた。
「派手に切っちまった啖呵に、自分で縛られてるだけだ。覚悟と呼ぶには軽すぎる。信念と呼ぶには汚すぎる」
同じ造りの顔の男は、積もった埃を吹き散らすみたいにそう言った。
「……何が言いたいんだよ」
「ガキの癇癪と一緒だって言ってるんだ。厄介さだけはその域を越えるけどな」
言い返す言葉は探すまでもなく喉元にあった。飾りも笑みも間に合わず、素の温度のまま口から滑り出た。
「世界が僕を拒んだから、僕も世界を拒むんだ……!」
エドガーは、今度こそ声に出して笑った。これ以上ないほど、高らかに。
「神様みたいだな、おまえ」
よりにもよってエドガーが発したのは、その単語だった。王都行きの下水道であの爺さんが出したものと、同じ。
反論はいくらでも溢れてきた。溢れすぎて、何から声に出せばいいのか分からなくなった。ただ、拳と奥歯に力がこもっていくだけだった。その事実が、余計に力を膨らませる。
そのときだった。エドガーの足音が聞こえて来たのと同じ方向から、不気味なうめきが聞こえてきた。
配管の束が外側から撓み、隙間へ、腕と呼ぶには関節の多すぎるものが先に滑り込んでくる。続いた胴体は人の形を途中で諦めていて、諦めた場所から先が、まだ濡れて光っていた。
それが向かってくると気づいたときにはすでに、ロイは走り出していた。走り出したつもりの膝は思ったより三割浅くしか上がらず、二歩目で早くももつれて、配管へ肩から突っ込みながらどうにか谷の奥へ体を捻じ込む。背後で金属の悲鳴と、それを踏み潰す湿った音。
すぐに入り組んだ狭い裏路地へ抜けることができた。都合のいいことに、ロイの得意な地形だった。
「なあ」
息一つ乱さないまま後ろを着いてきていたエドガーに、声をかけられた。
「この街の第一印象は?」
こんなときにする話か、と黙殺しようとしたが、妙な違和感が頭から離れなかった。
「建物はひとつ残らず廃れきってるわりに、活発な機械が多いとは思った」
答えてやる義理は無かったが、口が暇すぎた。
「正解――まるで、工場みたいだろ?」
ニヤニヤと、どこか愉快そうにエドガーは嗤う。背後では、エドガーの姿越しに化け物の群れが追って来ているのが見えた。
ロイは、足を引きずりながら駆ける。余裕綽々と背後をついて回るエドガーを鬱陶しく感じながらも、隠れ場所を探すために。
見覚えのある広場だと思ったら、さっきまで隠れていた筐体の口の中だった。とうに死んだ半壊のそれは大口を開けたまま、起点にロイを戻していた。
その口の前に、人影がひとつあった。立っている、というより、見えない糸で吊られたものが揺れている、と言った方が近い立ち方だった。少女の輪郭をしていた。輪郭だけは。肌のあちこちを色味の違う皮膚が縫い目ごしに継ぎ接いで、肋のあたりでは折り畳まれた細い肢が、呼吸のたびに開こうとして、開ききらないままの動きを繰り返している。
その顔に、ロイは見覚えがあった。
「エマ……?」
痺れた喉から、意図せずその名が転がり出た。
目の前の、揺れていた輪郭がぴたりと止まる。残された二つの目がゆっくりと辿って、ロイの顔――左頬の火傷の位置で止まった。
「お客さん? あのときの……」
間違いなく、エマの声だった。
「お客さんも、連れてこられたの?」
「……」
「ロッティも、来てる?」
「……」
言葉は続いている。続いていることが、かえって恐ろしかった。
その姿はもう、人間とは言えない。肋骨の延長とでも言いたげに胸から生えた八本の肢と、体毛とはべつにうっすらと全身を覆う毛。そういえば蜘蛛ってのは、こんな雰囲気だった。
次にエマが口を開いたとき、本来それ以上開かない位置を、彼女の顎はあっさりと越えた。裂け目は両の耳の下へ向かって走り、糸を引いた血が顎先で束になって垂れた。
“考えろ”。ロイは自分にそう命じた。
エマに最後に会ったのは数日前だ。そのとき、彼女は元気だった。ロイはしっかりと、孤児院の光景を目に焼き付けていた。
つまり、エマが変貌したのはこの数日の間――。
心当たりがあった。あの日から今日までに、孤児院のあった場所では重大なイベントが起きたはずだった。
カーディナル・レヴナントの、来訪だ。
工場みたいだろ? さっきのエドガーのセリフが脳内で反復される。
てっきり、ここは政府が介入できないほど治安の悪い街なのだと思っていた。カーディナルはいいようにサレムを利用していたのだ。
「あガ……」
それは、エマの口から発された言葉だった。意味のある単語のようには、到底聞こえない。
「エマ」
もう一度名を呼んでみたが、今度は届かなかった。
身体を支えていた二本の脚が力を失い、その場に寝ころんだ。代わりに、胸の前の八本の肢が地面を押し返した。
エマの目はもう、焦点が合っていない。
「逃、げ……」
エマがそう口にしたときには、既に額をナイフが貫いていた。八本の足が順に折りたたまれて、微かな地鳴りとともに地に伏せ、それっきり。
遠く息を荒げるロイは体重を前の足に乗り切らせたまま、その腰には空になった鞘だけが刺さっている。蜘蛛の尻から伸びた粘性の糸が背後に迫っていて、数瞬判断が遅れていれば今頃地に伏せているのは自分だったであろうと、ロイは激しく鳴る心臓に冷たい空気を送り込む。胸が焼けるようで、張り裂けるようで、されども感覚が薄い。脳はそこはかとなくフワフワしていて、思考が止まり切ったまま冷汗だけを捻出していた。
姿勢をほどいて、右手を下ろす。指先が震えていた。
「……麻酔が、まだ」
「良いね」
面白がって笑い飛ばす声が、背後から聞こえた。エドガーはその場に座り込んで、煽るように拍手していた。
「良いものが見れた」
湧きあがる殺意を押さえようとした。せっかく心臓は必死に全身へ新品の血液を送っているのに、肝心の脳は冴えなかった。
「その。目もな」




