#3 残酷なアンコール
聖堂は暗闇に包まれた。外から潜り込んでくる月明りがうっすらと室内を照らすが、それだけ。そんな頼りない光の中で、アンセルム・パルティトゥーラは人の背丈を超える漆黒の影と向き合っていた。
信者たちはあわてふためいて、外へ逃げ出そうと躍起になるが、どの扉も開かない。
幾何学の仮面のすきまから、ぎらついた眼光がアンセルムを見ていた。
「クリス、下がりなさい!」
アンセルムが言い終わるよりも速く、巨体が親子の間を切り裂くように通り抜けると、風圧で燭台が一斉に吹き飛ばされて、油が床に飛び散った。
その瞬間には、仮面の男の漆黒の腕がクリスティーヌの細い首に絡みついていた。
「う……」
ぎちぎちと音を立てて首に爪が食い込んでいく。
アンセルムが手を伸ばすが、その手は空を掴んだだけだった。影がクリスティーヌを抱えたままゆっくりと後退して、距離を取った。
『寄るな』
途切れながらも吐き出される不快な機械音が鼓膜を汚す。
「ア……ッ」
腕の中でもがき苦しむクリスティーヌは喘ぐように、ある名前を呼んだ。必死に男の腕を掴んで、引き剥がそうとしながら。
「アドリアン……どこ……? 助けて……」
だが、その名の主は来ない。来られるはずがなかった。
『呼んでも無駄だ』
断言するような口調に、クリスティーヌの瞳は絶望に濡れた。口をきゅっと噤んで、男を睨みつけた。
仮面の男にとっては、この少女の細い首など、茹でる前のパスタのように折り砕けられる。それでも、何故か男はそうしなかった。
『ひとつ聞かせろ』
巨体は、少女の首を握る手をわずかに緩めてから、伯爵を見下ろした。影を纏った鋭い視線は、睨みつけるだけで頸動脈を掻っ切られる感覚を覚えさせられる。
『自分の娘とその下らん信仰心、どっちが大事だ?』
「なにを……」
仮面の男が言い切ると同時に、その腕に再び力がこもり、クリスティーヌの喉から、ひゅう、と細い音が漏れた。首から上が吹き飛んでしまったかと見紛うほど、その握力は常軌を逸していた。
「クリスに決まっている」
考えるよりも先にアンセルムの口は開いていた。直後、一瞬だけ「やってしまった」という顔をしたが、すぐに引っ込んだ。
『そうか』
仮面の男は放り投げるようにクリスティーヌの喉元から手を離して、アンセルムの方へと歩み寄る。娘は赤いカーペットの敷かれた床に叩きつけられると、嗚咽を漏らしつつ力なく横たわった。
見渡せば、信者たちは壁際まですり寄って怯えた表情を浮かべながら震えていた。
『あの娘だけは、生かしてやろう』
アンセルムは、恐怖とも安堵ともつかない表情で後ずさる。必死こいて巨体を睨むが、なにひとつ怖くはなく、傍から見れば象と猫が威嚇し合っているよう。
「そこまで」
その声は、玄関の方から。顔に大きな火傷跡を負った少年だった。
誰もが壇上でのできごとに釘付けになっていたからか、その人物がいつどうやって侵入し、ここまでやってきたのか、気づいた者はいなかった。教会内の火が順に消えていったあたりからだろうか、つまり最初から、ロイはずっと聖堂の後ろの方でアンセルムの表情だけを見ていた。
ロイの芝居がかった笑みは、恐怖と絶望と緊張に満ち溢れるその場に似つかわしくないほど、軽い。
『――またお前か』
わざとらしく巨体がそう言うと、ロイは呆れたように肩をすくめた。
これといった合図もなく、ロイはカーペットを踏みしめ、跳び出した。その手許には、鞘から抜かれた短剣が握られている。
迎え撃つように巨体が大上段から振り下ろした短剣を自らの短剣で受け止める。台本通りではあるが、男からの一撃は打ち合わせより十五パーセント重かった。
刃同士が噛み合って、わずかに火花を散らした。
仮面の男の体がわずかによろめいたその瞬間を、ロイは見逃さない。低く踏み込み、横薙ぎに刃を入れる――すると、短剣が外套だけを二つに切り裂いた。
手ごたえが、全く無かった。
「――!?」
アンセルムが目を見開いた。
二分された外套は力を失ったように崩れ落ち、その上を幾何学模様の仮面が転げた。外套の中身は、忽然と消えていた。
「逃げられたか」
ロイは、腰が抜けているアンセルムと壁にもたれるように座り込むクリスティーヌの近くで、短剣を握ったまま仮面の残骸を見下ろした。
アンセルムは震える足を叩き直して無理矢理立ち上がると、一目散にクリスティーヌのもとに駆け寄った。何が起きていたのか自分も分からないだろうに、真っ先に、そうした。
油の飛び散った床に、アンセルムは膝をついていた。クリスティーヌの喉元には、掴まれた痕がくっきりと残っている。赤黒い、指の形。そこへ手を伸ばそうとして、アンセルムは躊躇った。触れれば砕けてしまいそうだとでも思っているのか、指先は宙で行き場を失くしている。壇上であれほど雄弁だった彼は、娘ひとり触れることのできないまま指先を震わせていた。
警報を締め出した聖堂は静まり返っていて、いまこの空間で最も大きな音は、クリスティーヌの呼吸だった。ひゅう、ひゅう、とへたくそな笛のように細い音が、暗い天井へ吸われていく。
その唇が薄く開いて出てきたのは、砂利の詰まった歯車のような音を纏った咳だけだった。
アンセルムは、細い肩が跳ね上がるたびに苦しそうな顔をするクリスティーヌの背中の下に、咄嗟に手を差し込んだ。
ぼやけていた脳が覚めたみたいに、生にしがみつこうと見苦しくもがくみたいに、クリスティーヌは大きく息を吸い込んだ。父の腕の中、半ば横たわったまま、背筋だけを癖のように立て直して、声を出した。自分の喉が無事であることを、証明するみたいに。
ただし、それは先程歌ったような讃美歌の類ではなかった。若者の間ではやっているような、リズムが速くポップな曲だった。
アンセルムは止めなかった。その歌声は今までアンセルムが聞いていた“供物としての讃”ではなく、もっと透き通っていて美しい、“娘の歌”なのだから。
「なんだ、その歌は!」
そんな声が矢のごとく飛んできた。壁際、ひとりの信者が眉を寄せて壇上を睨んでいた。
「なんと穢れた歌を……!」「やめさせろ!」「冒涜だ!」
声は瞬く間に伝播して、怒声の輪唱と化した。万雷の賛美を送っていた口は、真逆のものを吐き出していた。
そのときから、もう、クリスティーヌは自分の歌を誰かに聞かせることをやめた。いまはもう誰に向けるでもない、宛先を失くしたまま、ただ聖堂を温かく満たすだけ。ヤジは悉くクリスティーヌの心をえぐるが、関係ない。歌詞の憶えていない部分は鼻歌で埋めた。声は確かに綺麗だが、お世辞にも聴き心地が良いとは言えない。父の腕に頭を預けたまま、目をつぶって、腹から声を出していた。
「伯爵!」
誰かが、壇上に怒号を飛ばす。
「なぜお止めにならない!」
アンセルムは答えなかった。
娘の頭を支えたまま、神父服の留め金に指をかけた。ひとつ、ふたつ。怒号が順に、戸惑いに変わっていく。そのままアンセルムは、真っ黒な神父服を信徒席の方へ放り投げた。ひらりふわりと舞い踊り、地面に落ちる。
「誰でもいい、早い者勝ちだ。すきに着るといい」
説教とは程遠い、場違いな声色。
誰も、その場を動けなかった。数秒の沈黙。それからすぐに、箍が切れた。最初のひとりが床を蹴ろうとしたのを合図に、雪崩が起きた。貴族も商人も、押し合いへし合い、神父服へ群がった。袖をつかむ手、裾を引く手。肘が頬に突き刺さっても、謝る人間はいない。
そんな修羅場においても、歌は続いていた。聴いているのは、娘を支える父と、外套の残骸のかたわらで短剣を手に提げたまま立つ、火傷の少年だけ。少年は身じろぎもせず聴いていたが、何を思っているのか、その立ち姿からは何も読み取れなかった。
やがて、歌は終わった。最後の音は、震えても掠れてもいなかった。肩で息をして、アンセルムとロイを見比べると、ふっと子供じみた笑みを見せた。わざとらしい表情ではない、こぼれただけの笑顔だった。拍手も祈りも鳴らないけれど、クリスティーヌは満足そうにはにかんだ。
かちり、と。少年が刃を鞘に収めた音が、やけに響いた。
「そろそろいいですか?」
乱闘に発展していた信者たちの動きが止まって、視線が一斉にロイを向く。その中心で四方八方に引っ張られ輪郭の歪む神父服のもとへ歩み寄ったロイは、硬直した信者たちを無視してその服を引きずり出した。信者たちが動けなかったのは、たぶん焼けたばかりの生傷を間近に捉えたからだろう。
ロイは神父服の装飾に、ひとつずつ指をかけていく。金糸の縁取り。襟の房。胸に縫い込まれた、白い冠の紋章。びりり、と布が破ける音がして、順にちぎり落とされていく。最後に服の前側を縦に切り裂いて、外套みたいに無造作に羽織った。
「神父殿、お訊きしたいことがあります」
ロイは軽く手を振って、そこでようやくアンセルムと目を合わせる。
「八年前。アルミュール伯爵の目的を密告したのは誰ですか?」
その名を聞いた途端、アンセルムの表情が固まった。
本来、この質問はする予定などなかった。「クリスに、決まっている」――ロイの思い描いていた台本の上に、あのセリフは存在していなかった。アンセルムが自分の娘すらも裏切ったとき、この疑念の信憑性は限りなく最高値に達するから。
「……なんでそんなことを」
「質問しているのは僕です」
本題に入ったというのに、ロイの声色は相も変わらず、アンセルムのものに比べてまだずいぶんと軽かった。
だというのに、気圧されるように抱えていた娘の肩をわずかに引き寄せた。
怯えの底が抜けた人間は、嘘を組み立てられない。――そのための茶番でもある。後付けだが。
やがて、アンセルムは観念したように口を開いた。
「先に裏切ったのは、あの男だ」
ロイはその言葉を最後まで聞き終えると、ふっと息を吐いた。目の前の男のせいで、両親は消され、結果的に自分も追われる身になった。ひとりでに、短剣を握る指に力が入る。
――確かめるだけ。ロイは胸の内で、繰り返し言い聞かせる。やり返すために来たんじゃない。はち切れそうな何かを奥歯で噛み潰し、深呼吸がてら腹の奥まで沈めた。指と肩から力を抜き、無言で踵を返す。
これ以上ここに居れば、危ない気がしたから。
「待ってくれ」
去ろうとしたのを察したのか、アンセルムは少年にそう投げかけた。
「せめて、名前を。君は、いったい――」
「名前、ねえ」
振り返ったロイの空虚な心に、一筋の光が差した。
いつか地下水道で、自分を襲おうとした貧民たちに手配書を掲げた時、同じような感覚だった。
確かめずにはいられない――そんな、衝動の如き濁った好奇心。
「――ロイ・アルミュール」
痣は焼き捨てた、ゆえに、その名前だけが最後の証。
アンセルムの弱々しい声と違って、ロイの声はよく聖堂の中に反響した。
時が止まったかとも思える幾秒かの空白を経て、初めて反応を見せたのは、クリスティーヌだった。父の腕の中から身を引き剥がし、弾かれるように後退した。アンセルムの腕が、また空を掴んだ。
そんなアンセルムの表情をよく窺うと、額から絞ったぞうきんみたいに汗が溢れていた。
「おかしいな……僕、さっきおまえらを助けたよな?」
また、期待していたものとは違った。
これは、ただの怯えだ。
「まあ、そうだろうな」
そのとき、カーペットの上の外套がもそりと動いて、布越しに小さな凝りのような塊が見えた。ごそごそとうごめきながら、その下より小さな茶色い毛玉が這い出てくる。
『やれやれ、“人型”は疲れるのう……』
それはハムスターだった。
いや、人語をしゃべっているのだから、厳密にはハムスターではないのかもしれない。
それを見て、アンセルムは固まり、クリスティーヌもなにがなんだかという表情をしていた。
『……あ』
床に転がる二人を見て、コンブの髭が一瞬だけ逆立った。
『まだ終わっとらんかったんか』
「少し長話が過ぎたかな」
アンセルムの視線がコンブからロイへと移動する。
「……茶番だったとでも言うのか?」
「残念ながら、その通りです」
クリスティーヌの喉から、掠れたうめきが漏れた。震える手で床を掻き、這うようにして、出口の方へと身をよじる。
「アドリアン! アドリアン、どこ……!」
ロイの探し求めていた目は自己中心的な叫びに変わり、いまは別の男を探して床を掻いている。
……くだらない。少しでも期待していた僕が、馬鹿みたいじゃないか。
今回はカーペットだが、真っ赤だ。八年前、ロイの逃避行が始まったあの日の絨毯と同じ色。
思考だけを置き去りにして、ロイはクリスティーヌのもとへと歩み寄った。口の中へと手を突き込んですぐに引き抜き、短剣を滑らせると、手の中に桃色の肉片が残った。絨毯の赤は、さらに深い赤に上書きされた。
クリスティーヌは口から血しぶきを上げながら、その場に膝から崩れ落ちた。あの夜のロイと同じように、うずくまった。
「クリス!!」
アンセルムの怒号ががらんとした聖堂の天井に跳ね返った。すぐに、クリスティーヌのもとへと駆け寄っていた。
足元に転がった少女の痛々しい表情に、ふとロイは足が止まった。
――やりすぎたか?
いや。
自業、自得だ。
血の気も失せた少女の唇は、別の男の名を探して震えているのに、それは声にまとまることはなく息のままかすれて消えていく。
コンブが咎めるように声を上げていたが、ほとんどロイには届かなかった。
『気に入ったようじゃったからなるべく傷つけんようにしたっちゅうのに』
ロイが手を差し伸べると、小さな毛玉は呆れたようにため息をつきながらも飛び乗った。
「行こう」
ロイは血の付いた手を振り払う。けれど、指先に残ったぬめりは取れなかった。
◇◆◇
冷たい石畳の感触が、頬に触れていた。
アドリアンが意識を取り戻したのは、足音が完全に遠ざかってからだった。
後ろ手に拘束されているが、縛り方そのものは雑だった。あの少年は――殺すこともできたはずなのに、自分を眠らせ、ただ転がしておいただけだ。とどめも刺さず、武器すら奪っていない。
その事実が、屈辱として胸を焼いた。
手首をひねり、肩の関節を限界まで引き絞る。布の結び目がじわりと緩んだ。歯を食いしばって体重をかけ、ようやく片手が抜けた瞬間、残りの拘束はあっけなくほどけて落ちた。
立ち上がりざま、聖堂へと駆ける。腰の剣はそのままだった。抜くことすら許されなかった剣だ。
さっきまで分厚く積まれていた黒雲を背に、重い扉を肩で押し開けると、焦げた油と、血のにおいが鼻を突いた。壇の下、アンセルム伯爵が、娘を抱きかかえて震えている。
その腕の中で、クリスティーヌは口許を真っ赤に染め、ひゅう、ひゅう、と浅い呼吸を繰り返していた。
「お嬢様――!」
膝から崩れ落ちるように、アドリアンはそのそばへ駆け寄った。
血の気の引いた顔がわずかにこちらを向く。焦点の合わない瞳が、それでも確かにアドリアンを捉えた。
いつも歌いながら見ていた、あの死んだ魚のような目ではなかった。今そこにあるのは、ただの、助けを求める少女の目だった。
間に合わなかった。
ロータリーで、たったひとり持ち場を守っていればいいと、そう思っていた。あの火傷の少年に揺さぶられ、剣の柄に手をかけることすら忘れて、眠らされた。
守るべき主のすぐそばにいながら、自分は外で無様に転がっていた。
「申し訳……ございません……」
声が掠れた。床についた拳に、力がこもる。爪が、手のひらに食い込んだ。
「アドリアン」
顔も上げられずにいるアドリアンに、アンセルムが静かに名を呼んだ。責める響きは無かった。それがかえって、深く突き刺さった。
手首に残った布の痕を、長いこと見ていた。あの少年の名は、よく知っている。
アドリアンは、ゆっくりと顔を上げた。彼は憲兵でもないし、賞金稼ぎでもない。一億ドルなど、どうでもいい。ただ、この手で――。
「ロイ・アルミュール」
その名を、口の中で確かめるように転がす。
「あの男は、俺が、必ず殺します」




