#2 籠の中のカナリア
「ねえコンブ、あの家と僕、どっちが高いと思う?」
遠くに見える、山みたいな家を示して言う。
建設中のビルの中腹くらいだろうか、むき出しの鉄骨に囲まれた場所に、ロイは座っていた。
『家に決まっとろうが』
「ぶー、はずれ」
ロイとコンブが王都に入ってから、早くも三日が経った。更新された手配書は、ロイの手許にも広げられている。紙面には、似ているような似ていないような似顔絵。輪郭も目鼻立ちもほとんど適当なくせに、左頬の痣だけは、馬鹿みたいに丁寧に書き込まれている。まともな写真が一枚たりとも残っていないからだ。
そしてその下に、“懸賞金 一億ドル”の文字。
その影響か、今でも王都は警報の音に包まれていて、真夜中の王都には人ひとり出歩いてはいなかった。昼なら、もっと見かけるんだろうが……。どこの店もシャッターが下りていて、入ることさえできない。
「二年後くらいにはお城でも買えるかもね」
『その前に首が飛ぶじゃろうが』
警備は何をしているのだろう。ここのところ、ほとんど見かけていない。広い広い王都の中からひとりの人間を探しているのだから、妥当なのだろうか。おかげで、人のいなくなったコンビニや飲食店に侵入しやすくて、食料に困ることがない。
鉄骨は昼のぬくもりをとうに手放していて、座っているだけで体から熱を吸っていった。それでも、ロイはなかなか腰を上げなかった。この高さから見下ろすと、王都はまるごと作り物みたいで、警報も手配書も、誰かの決めた遊びのルールくらいにしか思えなくなる。
ロイは手配書をくしゃくしゃに丸めて、道端に放り捨てた。そして、ポケットから取り出したもう一枚の紙きれに視線を落とす。それは、この三日間の目的とも言えるもの。
古い書簡だった。くすんで端は黒く焦げている。
見覚えのある筆跡で、“アンセルム・パルティトゥーラ伯爵”と、そう書かれていた。内容にはもう目を通している。長ったらしい文章ではない。たった一文、手がかりはそれだけだった。
『そんなもの、まだ持っとったんか』
「唯一の、家族の痕跡だから」
ロイは焦げた紙の端を爪の先でそっと撫でた。
「八年前、両親は誰かに消された。警察や憲兵なんかじゃない、もっと別の――いや、上の連中だ」
ただの貴族の夫婦が、わざわざ消されるという大それた始末を付けられるほど、ロイの両親は“誰か”にとって不都合なことをしようとしていた。
『不都合なことってなんじゃ』
「……」
表向きに語られるのは、その危険な思想だった。世界を滅ぼそうとした――そんな、与太話だとしても笑えてくるような。
ロイの両親はいったい何故消されたのか。ロイは、レグナリアにはその答えがないと分かっていた。レグナリアは間違いなく大国だが、新興国だ。少なくとも数千年以上もの歴史を持つ古代国でなければ、真相を紐解くことはできない。
『なら、なしてその貴族のとこに行く』
ロイの膝の上の書簡を見つめながら、コンブは小さく首を傾げた。
「――ただ、ずっと気になっていたこと」
ロイは書簡の表面に今一度目を通した。こいつは、生前の両親に、深い関わりがあった人物だ。
『恨み言でも言いに行くんか』
「……」
ロイは焦げた書簡を、灯かりの上でひらりと揺らした。
「確認するだけさ。こいつがいなければ、僕の人生はどうなっていたのか」
手紙を膝にのせて、灯かりに目をやった。油の燃える小さな火が、冷たい王都の空気をあぶって、陽炎を揺らす。その揺らぎの向こうに、別の炎が重なって見えた。
火の粉が視界を埋め、家が燃えていた。
幼いロイは血に濡れたカーペットの上で、ソファの裏に身を隠すようにしてうずくまっていた。
その裏に、奴がいる。
「――白き冠あるところ、災いは芽吹く」
単純な幾何学模様をいくつも並べたような仮面をつけた、表情の見えない男。
「我が名は――」
そこから先は、焼け焦げた瓦礫の崩れる音にかき消された。
その不気味な声色は、八年経った今でもロイの鼓膜にへばりついていた。耳に残り続ける仮面の声を振り払おうとした。けれど、いっさい離れない。
『――何をしとるんじゃ、やめんか!』
コンブが何か言いかけたが、その声は届かない。ロイは灯かりの先端、ぱちぱちと音を立てて燃え続ける焔を、自らの左頬へ押し当てた。
じゅう、と音がして、皮膚が焼ける。
コンブが声を荒らげようが、気を失いそうになろうが、火を離さなかった。この尋常じゃない痛みが、あの記憶を頭の中から押し流すまで。
「……これなら、追ってこられないだろ」
へたり込むように力を失いつつも、ロイはようやく灯かりを手放した。
『そんなこと言って、また逃げるんか』
頬には、そこにあったはずの痣を覆い隠すようにして、ぐちゃぐちゃになった火傷跡が残っている。血肉の焼けた生傷は、鼻の利くコンブにとっては地獄のようなにおいを放っていた。
警報は遠くで、いまだ途切れずに鳴っている。よく聞くと、音は三種類あった、高いのと、低いのと、そのあいだ。全部自分のためになっていると考えてみれば、ちょっと贅沢な気もした。
ロイは膝の上の書簡と、遠くに見える山のような家を交互に見比べて、コンブに話しかける。
「……コンブ」
『なんじゃ』
「あれ、頼める?」
“あれ”が何を指すのか、コンブには言わずとも伝わっている。八年も同じ逃避行を続けていれば、言葉は半分でも足りる。むしろ、口に出さないことのほうが多くなった。
ロイは傍らの小瓶を傾け、灯かりに油を足した。しけった芯がじりっと音を立て、火がわずかに丈を取り戻す。その油もまた、ひとけの絶えた店から失敬してきた盗品だった。今のロイには、買うという選択肢がそもそも無い。火を灯すための油も、腹を満たすためのパンも、すべて誰かから奪ったものでできている。
『バカほど体力を使うんじゃが、しゃーないの』
コンブは長い髭を一度だけ震わせて、それから諦めたように身を縮めた。
「助かる」
そう言って、ロイは真っ黒な外套と幾何学模様の入った仮面を取り出し、床に置いた。
『……どっから用意したんじゃ』
「作ったんだよ。ずっと寝てるから気づかないんだろ?」
仮面の白は灯かりを跳ね返して、オレンジ色に煌いていた。あのときの仮面もこんなふうだったなと頭をよぎるが、ふしぎと嫌悪感は無かった。
「それにさ――偽物が暴れたら、本物は確かめに来ると思わない?」
◇◆◇
家とも言えるし、教会とも言える――へんてこな建物だった。遠くから見れば山みたいだったのに、入ってみれば壁画やオブジェが多くて、通れる場所はかなり狭く少ない。
王都の店という店がシャッターを下ろし、人通りも絶えているはずなのに、その教会だけは人の気配がなくなることはない。続々とうさんくさい服で着飾った信者たちが吸い込まれていく。貴族も居れば、商人風の人もいる。まるで警報の鳴り響くこの街の、避難所みたいだった。
「痣を消して正解だったよ」
ロイは外套の中でじっとしているコンブにだけ聞こえるくらいの声で囁いた。
「咎められることなく入れた」
ロイは度の入っていない眼鏡を押し上げた。ただのガラス一枚でも、世界はほんの少し遠くに見える。悪くない距離だった。
焼けた左頬はむき出しだが、真っ黒なフードを深く被っているせいで陰になって目立っていない。
建物の中に入れば、外面が嘘のよう、まるっきり教会そのものだった。中は警報が完全に遮断されていて、静まり返っている。高い天井から吊られた無数の火が信者たちの頭上で揺れる。壁という壁には見たこともない模様やデザインが刻まれていて、そのすべてが精巧かつ緻密。
『この紋様は』
「白冠教の教会かな、たぶん……」
ロイは、立ち見のようになっている最後列にしれっと加わる。
やがて、見惚れるような所作で壇上に現れたのは、白い衣をまとった少女。年のころは、ロイよりも少し下だろうか。緩やかなくせのついた茶の長髪を背に流して、信者全員の視線を受ける場所に立つ。
動きひとつとっても完璧に整っていて、操り人形かと見紛うほど。
少女は軽く口を開け、マイクも持たず歌い出した。
最初の一音が発された瞬間、教会の空気が変わった。全員が一斉に祈るように手を合わせ、目を瞑ったのだ。ロイにとってはおぞましい光景だった。操られているのはあの少女ではなく、信者たちだったのだ。
薄目を開けている奴がいないか探したけれど、いなかった。ひとり残らず、本気だった。
ロイは祈らなかった。白冠教の教えなんて、ロイには関係ない。この歌にどんな意味があろうが、ロイが興味を持つ理由になり得ない。
だが、この歌声には聴く価値があった。透き通っていて、深い。鼓膜の奥底まで震わせるような声だった。聴いたことがない旋律のようで、どこか懐かしくも感じられる。
なにより、ロイの興味を惹くのは、少女の“目”だった。歌い出す前まではかすかにあった生気が消え失せ、瞳は光を手放していた。鏡でも見ているようだった。ロイの求めていた目に、最も近いかもしれない。
そのとき。その目がロイを捉えた。
人々が祈りを捧げるなかただ一人、ただつっ立っているだけの男。歌いながら、少女は真っすぐロイを見ていた。少女の目は縋るようでも責めるようでもない、ただ確かめるように、掴んで離さなかった。そのときだけ、少女の瞳が揺れているような気がした。
少女は歌い終わると、一礼してスカートをなびかせながら祭壇を降りる。
万雷の、と表現するにふさわしいほどの賛美が教会を満たした。信者たちは次々に少女を讃える。
「素晴らしい供物だ」
「見たか? 教会が震えていた。あれは“向こう側”に届いている」
有象無象の称賛は、ロイには称賛などには聞こえなかった。あの少女の歌を、人ならぬものを呼ぶ道具として褒めているだけなのだと、そう感じた。胸の奥がざらつくような感覚を覚えて、ロイは踵を返し、教会を後にしようと出口へ向かった。
「あの」
出口に手をかけた瞬間、背後から声がかかった。
振り返ると、さっきの少女が立っていた。信者たちの隙間をするりと抜けて来たらしい。間近で見ると、作りものめいた所作の下に、まだ幼さの残る顔があった。
「私の歌、どうでした?」
唐突に、そんなことを聞かれた。名乗りもせず、ロイが何者なのか聞くことすらなく、ただそれだけを聞いてくる。
ロイは一瞬、迷った。迷ったふりではなく、心の底からのもの。
「どうしてそんなこと聞くんですか?」
「……あなただけ、祈っていなかったから」
まっすぐな目。歌っている間ずっとロイを掴んでいた、あの。
神々しかったとか、魂が震えたとか、それっぽいことを言っておけばいいのだろうか、とロイは思考を巡らせる。でも喉の奥からせりあがってきたのは、もっとずっと、つまらないくらい正直なものだった。
「綺麗な歌声でした」
ロイがそう言うと、少女は虚を突かれたように瞬きをした。賛美ならいくらでも浴びてきたはずだろうに、なぜか意外とでも言いたげに目をまん丸く見開いていた。
「それだけですか?」
「それだけですよ」
少女はふっと子供じみた笑みを見せた。歌っていたときの魂が抜けたような表情とは根本から違う。
「クリスティーヌと言います。以後、お見知りおきを」
よどみなく、流れるように貴族特有の礼を見せるクリスティーヌに、ロイは少し困惑した。
「あなたは信者ではないのですね」
「……まあ」
「なら、どうしてここに?」
核心に近い問いを少女はあっさりと投げてくる。警戒も裏もない、ただの好奇心。
ロイが誤魔化すより先に、信者の誰かが舞台の袖からクリスティーヌを呼んだ。次の務めがあるらしい。
「行かないと」
名残惜しそうに、それでも逆らうそぶりを見せず踵を返した。
「また聴きに来てくれますか?」
「……気が向いたら」
それきり、ロイは背を向け教会を出た。外に出ると、警報が耳に戻ってきた。そういえば、ずっと鳴っていたんだった。
特段意識していたわけでもないだろうに、終始ペースをつかまれていたみたいに会話のしづらい相手だった。なぜ何度も言葉が濁ってしまったのか、ロイは自分でも理解できなかった。
『おぬしが人を褒めるとか、初めて見たわ』
「……確かにそうかも」
嫌味たらしく鼻を鳴らすコンブの頬を指先で押して潰すと、コンブは放してくれとばかりに手足を振って暴れた。
ロイは月明りの当たらない影に身を寄せ、しゃがみ込んだ。“手はず通りに”そう口にする前に、一瞬だけ、ロイの手が止まった。
『どうした』
「……なんでもない。あとは、手はず通りに」
『おぬしはどうするんじゃ』
小さな毛玉がロイの腕を綱渡りみたいに渡って、地面に着地した。
「警備を動けないようにしておかないと」
ロイは黒い外套を脱ぎ、懐から取り出した仮面と一緒にコンブの腹に括り付けた。
『なんじゃこれは! おもとうて動けんがな』
「コンブならいけるでしょ?」
『無茶言うなバカタレ』
文句を垂れつつも小さな影は外套と仮面を引きずりながら教会の壁を伝い、登っていく。
役者は、もうすぐ出揃う。頭の中でぎこちなく揺れていた歯車が、一枚一枚噛み合っていくのを感じた。
コンブを見送りもせず、ロイは別の方角へ歩き出した。
歩きながら、なんとなく空を見上げた。西部では煙に呑まれてろくに見えなかった星が、ここでは頭の上に只で撒かれている。
教会の裏手、信者用のリムジンが並ぶロータリーへと回ると、ひとりだけ雰囲気の違う男が居た。ロイが想像していたのは、数人がかりの手薄な見張り。一人ずつ無力化するなり、撒くなり、どうとでもなる雑兵。
だが、いたのは一人きりだった。
鎧こそ着ていないが、腰に剣を提げ、立ち姿に隙が無い。警報の煩い夜に、たったひとりで持ち場を守っている。視線だけがたえず動いて、近づく者すべてを注視していた。
歩み寄ると、その視線がぴたりと留まった。
「――なにか?」
声は低く丁寧で、その実、鋭い刃のようだった。
「教会の警備の方ですか?」
「見ればわかるだろ」
取りつく島もない。力ずくは下策だ、とロイは早々に見切った。正面からやり合えば、コンブが動き出す前に騒ぎになって、すべてが台無しだ。
ならば、刃を抜かせないまま無力化するしかない。世間話を装っても無意味だろうか、と考えを巡らせながら、ロイは星の降る夜空を見上げた。
「さっき、中で茶髪の少女の歌を聴いてきました」
「用が無いなら去れ」
ぴしゃりと被せられた。突き放すような言い方は、さすがにロイの心にも来るものがある。
「お嬢様の歌声は、お前ごときが軽々しく論じられる次元には無い」
“お嬢様”。そのひとことで、目の前の男が何者なのか、割れた。こいつは、クリスティーヌの騎士だ。
ロイは内心でほくそ笑む。
「確かに、軽々しいかもしれませんね」
わざとらしく首をかしげて言った。半ば賭けのような発言のはずなのに、ロイは確信めいた感情を握り込んでいた。
「信者たちは供物だのなんだの言ってましたが――僕には、ただの綺麗な歌声にしか聞こえませんでしたから」
男の握っていた拳が、かすかに緩んだ。それきり、男は動かないし、何も言わない。言い返そうとしたが言葉が見当たらない、そんな沈黙だった。
その反応を見て、確信めいていたものが完全な確信へと変わる。
この男は、白冠教を信仰してなどいない。ロイと同じだ。あの少女の歌を、供物でも何でもなく、ただの歌として聴いている。そして、そう聴いていることを、たぶん誰にも言えずにいる。
「本当にそう思ったのか」
男の声から、さっきまでの殺傷力は失せ、刃毀れしていた。代わりに滲んでいたのは、個人的な揺れ。
「いけませんか?」
ロイへ向いていたはずの警戒は、いつのまにか、男自身の内側へと折れ曲がっていた。
「あの子、歌っているとき、死んだ魚みたいな目をしていましたよ」
嘘は、ひとつも言っていない。男の揺さぶられた心は、次のロイの動きへの反応に致命的な遅れを生じた。
◇◆◇
壇上から見下ろせる会衆席に、信徒たちがずらりと腰掛け並んでいた。アンセルム・パルティトゥーラは、娘を背に控えさせて、いつも通り信徒たちに教祖の教えを説いていた。
“歌”の話題を出すたび、クリスティーヌは苦い顔をする。その表情は、前髪に隠れてよく見えない。
アンセルムが話を終え、一歩下がったそのとき――祭壇の火が、ふっと消えた。風もないのに。
次の燭台も。その次も。一つ、また一つと、聖堂の灯が、奥から順に喰い潰されていく。
「……だれだ」
闇の底で、何かが、ずるりと立ち上がる気配がした。何もない場所から、むくむくと膨れ上がるように肥大化し、やがてそれは人の形を成す。人の背丈を超える、巨大な影。漆黒の外套を引きずり、深く被ったフードの奥から、見覚えのある――いや、見覚えがありすぎる紋様の仮面が、こちらを覗いていた。
単純な幾何学を、いくつも並べたような仮面。
アンセルムの足が、後ずさった。
「貴様――どこから」
その質問に影は答えない。けれど、スピーカーを通したような合成音声で、こう名乗った。
『――白き冠あるところ、災いは芽吹く』
その一句に、アンセルムの全身が凍りついた。知っている。その言葉を、その名乗りの形を。白冠教信者の中では単なるオカルトとして扱われていた存在。
『我が名は、“六道”』
男が発しなかったその台詞が、アンセルムの耳には聞こえた気がした。
ぎらり――仮面の奥で、丸い二つの目が光った。




