#1 そして少年は破滅を望んだ
――本日未明、指名手配中のロイ・アルミュール容疑者が、レグナリア西部アシヤ地区にて確認されました。推定十七歳、懸賞金は――
八千万ドル。そう値踏みされた少年は、途切れ途切れにひび割れたノイズを吐くラジオを見下ろした。濡れた筐体は鈍く光って、ロイのことを嘲笑した。
「お、懸賞金また上がった」
口笛でも吹きそうな調子だった。
『喜ぶでないわ、そんなことで』
ロイの胸元がもぞもぞと動いて、薄汚れた布の隙間から丸い鼻先と黒い目が覗いた。ハムスターのコンブは、這い出して来るなり濡れた前足を振り、水滴を散らした。
『ラジオなんかどこから盗んできたんじゃ』
「盗みとか言うなよ。元々そこに捨てられてたんだよ」
呆れるコンブを震える指先で無理矢理撫でながら、ロイはくすくすと笑った。顔だけ見れば、楽しげですらあった。
――市民の皆様は、左頬に痣のある少年を見かけた場合、決して接触せず、近隣の憲兵詰所へ――
最後まで聞かずに、ロイはラジオを放り捨てた。濁りきった水たまりに落ち、泥にまみれながら二、三度機械音を発して、それっきり。
『ものを粗末にするでない』
コンブは眠たそうに目をこすっていた。
「あんなラジオより僕の方が高いぞ」
『知らん』
土砂降りの路地の奥の奥。排気ガスの煙や腐った生ごみの臭いが混ざったような、嫌な空気が立ち込めていた。息を吸うたび、舌に薄い苦味が残る。真っ白なコンクリートで固められた背の高いビルが周りにならんでいるが、この路地ではそのほとんどが廃れていた。自分以外の人間が世界からいなくなったみたいで、ずいぶんと気持ちがいい。
人の寄り付かない場所というのは、どこの街でもだいたいこんな風な顔つきをしている。皮肉なことに、追われる者には随分と都合がいいが。
一息ついて、ロイは廃ビルの石壁に背中を預けた。石壁は雨を吸って冷え切っていたが、足も疲れているし、わざわざ離れる理由はない。こうして水滴を降らせる黒い雲を見上げていると、心が静まり返るようだ。嫌な出来事もこれからやるべきことも忘れて、いつまでも耽っていられる。そんな気がした。
しばらくして、水たまりを踏む音がした。せっかく保っていた笑みが一瞬歪んだが、角から現れた男の顔を見て、すぐに肩から力が抜けた。
「遅いですよ。帰っちゃおうかと思いました」
現れた男は返事もせず、ロイのすぐそば、雨の当たらない場所まで寄ると、差していた傘を閉じた。傘の陰が退くと、こけた頬に無精ひげを生やした、貧相な顔が光の下にさらされた。一年ぶりに見たその顔は記憶より少しだけ老けていたが、でもちゃんとサビルのまま。
「相変わらずで何よりです」
「悪い意味でか?」
「かもしれませんね」
サビルは目をほんの少し細めた。
「痩せたか?」
そう言って、懐から硬いパンをほうった。
「犬じゃないんですけど」
「要らないならいいんだぞ」
ロイは文句を垂れながらもそれを受け取ると、包みも剥ききらないまま齧りつく。不味い。硬いくせにコケでも生えているみたいにしっけていて、噛むたび酸っぱい臭いが口内に広がる。八年前、地下水道で貰ったパンと同じ味だった。
「で――今日は何の用件だ」
たばこを咥え、火をつけた。じめじめしているせいか、先端が赤くなるまでに少し時間がかかっていた。
ロイはその火をぼんやりと眺めてから、壁に預けていた肩を離す。
「偽造屋を紹介してくれませんか」
サビルは眉ひとつ動かさず、肺に取り込んだ煙を吐き出した。
「偽造屋だと? おまえは戸籍を書き換えても意味が無いだろう」
「それなんですが」
ロイは濡れた前髪をかきあげ、口角をわずかに上げる。
「この国を脱出しようかと」
「ほお?」
そこで、初めてサビルは反応を見せる。
「新しい場所で、新しい名前で――僕は人並みを手に入れる。
朝起きて、働いて、週末はちょっとおしゃれな店でご飯を食べてみたりして」
「よそ行きの船に乗るために、戸籍を偽造すると?」
「はい」
サビルは人差し指と中指でたばこを挟んだまま黙り込み、それから面倒そうに煙を吐いた。
「……ブラムの野郎が一番信用できる」
「さすがです」
サビルならば必ず情報を持っている。もとよりロイはそう確信していた。それだけの価値が、サビルの人脈にはある。
「だが、あいつはいま王都にいる」
ロイの顔に張り付いていた笑みがほんのわずか、一瞬だけ薄れた。コンクリートを打つ雨がその空白を埋める。
「あんな場所に戻れと?」
「国内と国外とじゃ話がまるっきり違う。そこらの三流偽造屋を頼る勇気があるのか?」
億クラスの賞金首の“正しさ”なんて、検証されるのは大体死体になってからだ。追われる以上、警察も憲兵も、なりふり構ってはいまい。
「八年ぶりに地下水道を開けてやってもいい」
「……」
息を吸い損ねたような声にならない声がロイの喉から漏れた。その瞬間だけ、雨音が遠のいた気がした。実際には変わらず降り続いているのに、耳の奥だけ妙に静かになった。
「まだ使えるんですか、あれ」
「ほとんど潰されたが、くさいのが一本だけ残ってる」
サビルはたばこの先の方を指でとんとんと叩いて、灰を落とした。濡れた地面に落ち、すぐに形を失う。
ロイは俯いたまま、しばらく何も言わなかった。食べかけの不味いパンは、もう半分くらい無くなっている。
「……嫌ですよ」
ロイの声は小さくて、環境音に呑まれてしまいそうだった。
「あんな街には戻りたくない。あの地下水道も最悪です。臭いし、汚いし、暗いし」
それに――そう続けようとして、ロイは口を噤んだ。再度廃ビルにもたれかかり、何か言葉を続けようともがくけれど、息と一緒に呑み込むしかなかった。地下水道、思い返すと浮かぶのは臭いや暗さだけじゃない。
サビルはとくに急かさなかった。たばこは根元まで燃えきっているのに、平然と吸い続けていた。
「判断するのはおまえだ。自分で決めろ」
ずいぶんと冷たい言い方だった。でも、なぜだか突き放された感じはしない。
「はは。サビルさん、ちょっと大人になりました?」
「おまえがガキなだけだ」
燃え尽きそうなたばこの火が指先に触れて、サビルは咄嗟に身を引いた。そのまま濡れた地面に落っこちて、黒く潰れた。それをサビルはぐり、ぐりとつま先で必要以上に押しつぶしていた。
視線を落とした先にある水たまりは、雨による飛沫と波紋でロイの顔をほとんど映さなかった。それなのに、いつも通りのわざとらしい笑みがありありと浮かんでくるようだった。
ラジオの内容がまだ頭に残っている。安っぽい、つまらない人生だなと一瞬思って、すぐに振り払う。こんなところでくすぶってる場合じゃない。微かにでも希望があるなら、掴んで離さないと心に決めていた。
ロイはゆっくりと顔を上げた。
「ブラムという人は、信用できますか」
「人間性は最悪だが、腕は確かだ」
「その人を頼れば、この国を出られますか」
サビルはすぐに答えず、押し黙った。しばらくして、さっきまで棒状だったたばこから視線を外さないまま、口を開いた。
「明言はしない」
正直な答えだが、ロイにとっては十分だった。
「……僕、行きます」
サビルの顔は変わらなかった。喜怒哀楽のどれともつかない、無表情。
「気を付けていけよ」
「いくらですか?」
ロイが見つめても、サビルは目を合わせてこない。
サビルは、そこで初めて口角を上げた。
「おまえと会うのも最後か。代金はいらねえ、餞別だと思え」
◇◆◇
王都の西外壁から離れた丘のふもと。枯れた灌木と崩れた石垣の陰にうずもれた鉄格子の蓋を開くと、長い間日に当たらず土の中に閉じこもっていた臭気が噴き上がってきた。忘れていた嫌な記憶が呼び覚まされて最悪の気分だったが、ある程度中まで進んでいくと、慣れて、忘れた。
地下水道は、八年前とほとんど変わっていなかった。苔むし、ツタが伸びてはいるが、においも汚さも暗さも、肌にまとわりつく湿気もそのままだった。細い通路を進むたび、靴裏が湿った石を擦る。最初は鼻についた悪臭も、次第に慣れてきた。
手にした灯かりは頼りなく揺れている。握る右手が徐々に痺れてきて、ロイは左手に持ち替えた。
『くさすぎるわ』
胸元のコンブは小さな鼻に栓を詰めたまま、涙目になっていた。
それを見てロイは吹き出しかけたが、すぐに気を取り直す。
「我慢してよ」
退屈しのぎに、口笛をひとつ吹いてみた。壁に何度も跳ね返って戻ってきた音は不気味に間延びしていて、知らない誰かが吹き返してきたみたいだった。
コンブが怖がっていそうだったから、二度は吹かなかった。
八年前なら、この水路には水が流れていた。水とはいいがたいほど濁っていて、底には何が沈んでいるのかわからなかったが。
今では、真っ黒な裂け目みたいに口を開いているだけだった。当時の水面の高さが色の違いとして残っている。灯かりをかざしても、底は見えない。
『落ちたらどうなるんじゃ』
「さすがに死ぬでしょ」
覗き込みながら、ずいぶんと軽い調子でロイは答えた。試しに、足元の小石をひとつ、つま先で落としてみる。ふたりして耳を澄ませたが、いつまで経っても音は返ってこなかった。コンブは見るからに青ざめていた。
今にも朽ち果てそうな木の橋へ踏み出す。湿気を吸った木は柔らかくて、踏み込むたびに靴裏に沈む感触が返ってくる。
対岸へたどり着いたところで、ふとロイは立ち止まった。前方の暗がりの底に、かすかな光が揺れていたのだ。外から漏れているだけだろう、その灯は小さくて頼りない。最初は人為的なものとは思いもしなかった。だが近づくにつれ、ぼやけた光が人影の輪郭を浮かび上がらせる。
老人だった。毛皮を一枚、肩に引っかけているだけ。その毛皮も、あちこちがほつれてボロボロだった。むき出しの腕は骨ばっていて、そのうえに皮膚が張りついている。
無意識にロイは歩幅を狭めていた。胸元、コンブも身じろぎひとつしない。
やがて老人が口を開いた。ひび割れた唇の隙間から、乾いた音が鳴る。
「身ぐるみを剥げ」
ロイに向けた言葉ではなかった。
後ろ、左、右――水音が立つと、闇に溶けていた気配が一斉に動いた。
空の酒瓶。
小さな金づち。
煤けた鉄パイプ。
三方向から影が、ほとんど同時にロイへと伸びた。
知らぬ間に囲まれていたと理解すれば、ロイは迷わなかった。八年以上追手から逃れ続けてきたロイの身体が先に動いて、それからようやく脳の処理が追いついた。
「全員武器を捨てて、動かないで」
ロイは老人の腕を捻り上げて、明るい声のまま言った。
三つの武器がロイの居た場所の空気を掠めとる。その時には既に、ロイは老人の背後にいた。
ロイは老人を盾にしたまま、視線を走らせる。この場にいる全員の姿、顔。それがロイの位置からはよく見えた。若い男が三人。痩せていて、靴は泥だらけ。
食べ物をよこせと言わんばかりに、誰かの腹が鳴った。
「……手馴れてるな、小僧」
老人がそう絞り出す。
「お互い様では?」
ロイの握っている腕がぎしぎしと音を立ててしなった。
老人は顔をしかめて、歯を食いしばる。
若い三人は観念したような顔だったが、武器を捨てようとはしなかった。
「……なんで、こんなところに住んでる?」
ロイは老人を固定したまま、素朴な疑問を投げかけた。
「犯罪歴があるわけでもないだろ? 外なら、もっとましな暮らしもできるんじゃないのか」
老人は急に体をよじって、ロイの腕を振りほどこうとした。骨ばった体が暴れるが、力はか弱く、振り切ることもできず息が切れてしまっていた。
「貴様なんぞに……」
喉が潰れたようなガラガラ声で老人は叫ぶ。
「神に見放される気持ちが分かるものか……!」
ロイの目から、すっと色が抜け落ちた。目は開いているはずでも、そのとき虹彩が映していたのは虚無だけだった。
ロイは何も言わない。その一瞬だけ、空洞に反響する水が滴る音のほかに何も聞こえなかった。この空間においては、その一滴こそが一秒だった。
「腕の一本くらいくれてやる」
肩で息をする老人の懐から刃の毀れた包丁が抜かれる。錆びた刃先が灯かりを鈍く反射していた。
「代わりに、おまえを今日の晩飯とする……!」
ロイは動じず、手刀を返して刃物の柄を弾くと、それはゆるく回転しながら水のない水道の底に消えていった。
「食べるなんて、もったいない」
その笑みは、若い三人をわずかに怯えさせる程度には狂気めいていた。
「売れば、一生遊んで暮らせるのに」
軽い調子だった。
冗談みたいに。
三人の若者は後ずさる。
それを見て、ようやく自分が変な顔をしていることに気づいたロイは、片手を顎のあたりに当てながら口元を緩めなおした。
「もし」
続けて、ロイはぽつりと落とす。
「僕があんたらよりも迫害されて生きてきたとしたら、あんたらは僕に同情してくれるのか?」
誰も答えなかった。
そこから先は、言う必要のないことなのだろう。黙って背を向けて先へ進めば、それで済んだ。もうこの地下水道も半分くらいは歩いたはずだ。次の橋も、すぐそこにある。
ロイは懐から一枚の紙きれ――自身の似顔絵が描かれた手配書を取り出し、掲げた。それから、前髪をかきあげて、痣のある左頬を灯かりの前にさらした。
「僕の首、八千万くらい価値があるんだよね」
分かっていた、意味の無いセリフだと。それでも、口は勝手に動いていた。
返事はすぐには来なかった。その数秒のあいだ、ロイは三人の顔を順に見ていたが、何を探しているのか、自分でも分からなかった。
怯え。逃げ腰。怒り。── どれでもいい。どれでもよかったはずなのに、ロイの目は、それより手前の何かを探していた。
“同じ目”をしていないか、と。似た境遇の者だけが浮かべる、あの濁った目を。
均衡を破ったのは、いちばん奥の男だった。じり、と一歩退く。そのつま先は、ロイとは全く関係ない方向を向いていた。
ひとつ手前の男は、腰が抜けたようにどさっと尻もちをついた。今にも泣き出しそうな目で、ロイから焦点をずらさないまま後ずさった。
両方とも、見慣れた反応だった。痣を晒すか、名前を明かすか。街中で同じことをしたら、いつもこんな反応をされてきた。
しかし、いちばん手前の男だけは違った。鉄パイプをより強く握りなおして、ロイを鋭く睨みつけた。金に目がくらんだ、亡者の顔つきだった。
三人とも、ロイの探していた目とは異なっていた。
「……まあ、そうだろうな」
呆れたようにロイは老人を突き飛ばし、背を向けた。追ってくる足音は一つだけ。
前方にすぐ、橋があった。先程渡ったものとよく似ているが、より細く黒ずんでいた。
足場の板がひどく唸るように悲鳴を上げた。真下に目をやれば、際限のない深淵が大口を開けている。
「逃がすか!」
背後から追ってくる男が声を張り上げる。
橋を渡り切ると、ロイは振り返りざま身をかがめた。
「来ない方が良いよ」
ロイは地下水道の床と橋をつなぎとめる金具に、落ちていた石ころを何度も打ち付けた。
金具がひしゃげ、そして、外れた。
男が対岸から踏み出そうとした瞬間、橋全体が大きく傾いた。
「――!」
男は咄嗟に飛びのき、闇の淵に呑まれていく橋をただ見届けるしかなかった。暗い裂け目の向こうからロイを見ていた。怒鳴っている様子だったが、よく聞こえない。
『いいのか、おぬしも戻れんくなったぞ』
コンブがぴょこんと顔を出して残念そうに、落ちゆく橋の影を見送った。
やがて全部、水路の静けさに落ちていった。
「戻る気なんて無いよ。ハナから……」
ロイは震える指先で灯かりを持ち直し、踵を返す。
歩き出してすぐ、癖みたいに耳を澄ませていた。雨の音は、ここまでは届かない。地上ではまだ降っているのか、もう上がったのか、それすらも分からなかった。
『この先は王都じゃぞ。辛うなっても戻れんの、分かっとるんか』
「辛いことなんてないよ。むしろ」
ロイは、目を細めた。
「こんなクソみたいな国からおさらばできると思うと、ニヤニヤが止まらないね」
◇◆◇
西部ならば、まだ夜の闇に包まれている頃。なのに王都の空は、ほとばしる紫色の稲光によって断続的に照らされていた。空をまるっと覆ってしまうほど積み上がった雷雲が、街並みの輪郭を淡い白色に浮かび上がらせる。
街の中央にはひときわ高い尖塔がそびえていて、稲妻が次々と吸い込まれていた。荒れ狂う雷雲は、まるで首輪でもついているみたいに塔の先端に縛り付けられていた。
塔の表面には、ホログラムの掲示板に企業広告が絶えず流れていた。幼少期に住んでいた場所のはずなのに、八年間あまり西部から出ていないロイにとっては、夢でも見ているかのような大都会だった。
空気は明らかに西部よりも澄んでいた。八年前と比べても、遥かに。あの夜の泥と血の臭いは、もう影もなかった。
サビルから受け取っていた地図は、汚く、湿りきって、端っこが丸まっていた。折り目も擦れて白くなっている。
赤い印が打ってあるのは、王都南西区のはずれ。華やかな大通りからすこし逸れた裏路地だった。表向きは華やかで幻想的な王都も、こういう場所は西部の倍は荒んでいた。
廃材置き場と古い倉庫が並ぶ、光の届き損ねた一角。
ロイは頭上を見上げた。飼いならされた雷雲がまたひとつ、塔へ稲妻を吐き出した。その瞬間に、路地の奥に古びた木造の倉庫が輪郭をにじませた。
壁板は黒ずみ、屋根にはカビが生えている。王都のきらきらした雰囲気を拒むように、そこだけ時代から切り離されていた。
『ここか』
「地図通りならね」
地図を畳んでから、ロイは入り口のすぐそばまで歩み寄る。近づくほどに周囲の音は遠のいていくような気がした。
扉を三度叩く。
返事は無い。
「サビルさんの紹介です」
「……名前は?」
数秒遅れて、蛾の羽音みたいな気持ち悪い声が返った。
「ロイ・アルミュール」
ガコンと重い閂が引き抜かれる音が聞こえた。扉は押さずとも開かれた。
「入れ」
ロイはコンブを外套の奥に捻じ込んで、中へ足を踏み入れた。コンブは不満そうに暴れたけれど、ロイは無視して突き進む。
広い部屋だった。“倉庫”と言われてすぐに思い当たるような部屋よりも、明確に整頓されている。そのせいか、外見よりずっと奥行きがあるように見える。棚には帳簿、印章、古い身分証の束が並べられていた。この一室にざっと目を通すだけでも、サビルの言った通り、仕事に関して相当な腕を持っていることは明白だった。
部屋のど真ん中に円卓、そして、最奥に男がひとり座っていた。立ち上がりもせず、最初からロイがそこに来ることを知っていたかのような顔で、頬杖をついて座っていた。
「初めまして」
ブラムは堂々と座り込んだまま、客に対し頭も下げなかった。その声色にすら愛想なんて微塵も無い。
「戸籍の偽造をお願いしたくて来ました」
ロイが頭を軽く下げつつ扉を閉め戻し、閂をもとに戻そうとしたが、閂なんてどこにも見当たらなかった。
刹那のラグを経て、扉はひとりでにガチャリと音を立て、施錠された。
「サビルから話は聞いているよ」
ブラムは懐から一冊のファイルを取り出し、机の上に放り投げた。どさり、と鈍い音。
目の前にいまあるのは、喉から手が出るほどロイの欲するもの。ロイは必死に、喉から伸びる手を唾とまとめて呑み下した。
「まあ座れよ」
ブラムは目線だけで椅子の方を示した。
表情や顔つきこそ違うものの、ブラムがロイを見る目は、サビルのそれとよく似ていた。ロイの固かった笑みはほんの少しほどけて、心臓のあたりがじんわりと温かくなるのを感じた。
それでも一挙手一投足はぎこちないまま、ロイは腰を下ろした。
座ってから、外套の裾が水を吸ったままなのに気づいた。行き届いた床板の上へ、染みがひとつ、またひとつ増えていく。ロイは裾を絞りかけて、やめた。
「移住先はファルミットで間違いないな?」
「はい」
ブラムはファイルから一枚の紙をつまむと、ロイの前まで滑らせた。
「戸籍だ。ファルミットに移れば、これで一般人として永住できる」
ロイのすぐ目の前で、その紙は止まる。
ロアン・ミュラー、二十一歳。ファルミット北部出身――。その名前にはまだ値札が付いていない。
「出国ルートはどうするつもりだ?」
「商人に紛れて、港町まで行きます。そこからは、密航ですね」
最後まで聞いて、ブラムはしばらく考え込んだ。机を指で何回か叩いて、それからブラムは顔を上げた。
「無理だな」
ロイは笑みを崩さないまま、更に目を細めた。
「理由を聞いても?」
「コイツは出国しか保証しねぇ」
ブラムは視線を落とし、資料を示しながら、わざとらしく鼻で笑う。
「それまでお前は追われ続けるんだよ」
ブラムの言っていること、その意味自体はさほど難しくない。けれど、なぜだかロイはピンと来ていなかった。
「……何が言いたいんですか」
まっすぐブラムを見つめてロイは言う。
「俺が特別な脱出ルートを用意してやる」
ブラムは、少し高くつくがな、と値踏みするように後付けした。
「結構です」
部屋に静寂が訪れた。即答したロイは、依然視線をそらさず、訂正しようともしない。
金が惜しいわけじゃない。決して、そういう問題ではない。理由はもっと単純で、“追われるから”そんな理由がロイの前では今更すぎるだけ。
「そうか。ではこの話はなかったことに」
ブラムは何気なく時計を見た。一秒にも満たない、ほんの一瞥だった。
そのとき、突拍子も無くロイの胸のあたりがもぞもぞと動いた。コンブは頭すら出さないまま、くんかくんかと鼻を揺らしているようだった。
『ロイ』
その声はいつもより数段低い。
『今すぐここを離れろ』
「……は?」
ロイはすぐには動けなかった。コンブの言うことが何を意味しているのか、理解できなかったから。
「優秀なペットだな」
さっきまでとほとんど変わらない表情で、静かにロイを威圧する。
「おまえよりいくらか賢いぞ、ロイ・アルミュール」
ロイはブラムの言葉を最後まで聞かなかった。置かれた状況を理解したわけじゃない。危機を確信したわけでもない。もっと、漠然とした何かがロイの脳内へ直接警鐘を鳴らしたのだ。
ロイは円卓を半ば乗り越えるようにして一直線に出口へと突っ走る。引っ掛かった書類が床に飛び散って、それをロイの濡れた靴底が踏みつけた。
『ロイ!』
コンブの爪がロイの胸をわずかにひっかいた。止めようとしたのか急かそうとしたのか、ロイにはわからなかった。
鍵がかかっていて重たい扉を力任せに蹴り破ると、外のひんやりした空気が吹き抜けてきた。
遠くで、警報が鳴っていた。白く弾けるいかづちが網膜を焼く。それが逆光となり、ロイの周りに無数の影が落ちていた。
見上げれば、銃口がずらり。
「……いつから?」
振り返る気力も起きず、ロイは立ち尽くしたまま背後に語りかけた。
「サビルに誘われてな」
ブラムはロイの背後、扉の向こうからゆっくりと歩み寄り、開いた扉にもたれかかった。
「『八千万ドル級の案件がある』って」
「……そう」
自分でも驚くほど、平坦な声が出た。
もともと、サビルは決して善人じゃない。口は悪く、金に汚く、嘘だらけ。分かり切っていた本性が表立っただけの話だ。
サビルはロイをクソガキと呼んだ。疫病神だとも呼んだ。
けれど、案件とも、標的とも、へそくりとも呼ばなかった。
胸の奥で何かが乾いた音を立てて落っこちたが、ロイはそれをわざわざ拾い上げなかった。
「両手を上げろ!!」
兵士の怒号が路地に反響した。
銃口にぎろりと睨まれても、ロイは動じなかった。
冷え切った頭で逃げ道を探していたのだ。壁の高さ、兵士同士の間隔。どこを測っても、抜けられる未来は一切見えない。
「――手を上げろと言っている」
今度は頭上から、渋い声が降ってきた。
聞き覚えのない声だったが、なぜだかふと目を引き付けられる。
ブラムの根城、古びた屋根の上――ひとりの男が座り込んでいた。
白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけた中年の男。夜更かし続きなのか目の下には薄くクマまで浮いている。
その顔も名前も、ロイは知っていた。ロイ・アルミュール捜索の、責任者とされている男。
カーディナル・レヴナント。
「きみは雨の日によく動く。検問が緩むからだ。
人前では極力痣を隠すし、盗みは食料と油だけ、金には必要な時しか手を出さない。徹底して、足がつかないようにしていた。
慎重で、賢く、無駄なことをしない――」
カーディナルはロイを見下ろし続ける。
「ずいぶん、手間取った」
馬鹿げている。冷え切っていたはずの頭の芯に、ぽつりと小さな火が灯った。
「初めて人を殺したときのこと、今でも憶えてる」
吐き出した途端、ロイの胸の奥が古傷のように痛んだ。目の奥が熱くなった。鼻の奥がつんと痛んで、次の声は、思っていたより高いところから出た。
それ以上、路地に響くのは雷鳴だけ。
八年かけて溜まりに溜まった膿を、押し出すみたいに。
「僕が、なにしたって言うんだよ……!」
「あの夫婦のせがれであること。お前の罪はそれだけだ」
即答だった。もう逃がさないとばかりに、底知れぬ冷光を放ちながら。
ロイは立ちすくみ、無数の視線をその身一つで浴びつつも、あっけにとられていた。人格への攻撃なら、まだよかったのかもしれない。カーディナルの一言は、ロイの存在を否定するものだった。
「おまえはいずれ、あの夫婦と同じ過ちを犯す」
怒鳴りもしないが、特段落ち着いているわけでもない。
ただ諭すように、当たり前の常識を子供に教えている母親のように、カーディナルは言った。
ロイは何度、この言葉を投げかけられたことだろう。「お前はいつか」とか、「両親と同じで」とか。そんな認識を、世界を、まるごと変えなくてもよかった。ただ、自分を理解してくれる人間が、ひとりでも増えてほしかった。
「それなんだよ」
カーディナルがぽつりとつぶやいた。
「間違っているのは世界? 自分は正しい? いつか証明できる?」
説教でもしているかのような口調だった。
「おまえのその目は、親のものと同じだ」
ロイの目が見開かれた。一瞬だけ、視界がぐにゃりと歪んだ。
“神に見放される気持ち”。あの老人の言うとおりだったかもしれない。
神は、とことんロイを嫌っていた。
「……そうかよ」
その声はもう掠れてなどいなかった。
コンブが胸元で身じろぎしたが、ロイは気にも留めない。
「もう、やめだ」
空が喉を鳴らす猫のように低く何度も唸った。いつの間にか黒雲が厚く重なっていて、紫電の光を塗りつぶしていた。
カーディナルの視線が、弾かれたように空を向く。
「お前らも、神も、世界も――俺のことを嫌い続けるのなら」
顔を上げたロイの目は、もう助けを求めていない。
はるか先の未来を見ているわけでも、今この瞬間を生き延びることを考えているわけでもない。現実逃避のように見えなくもないが、それも違う。
自業自得だぞとでも言うようで、開き直っていた。
「本当に、世界を滅ぼす“災い”に為ってやる」
雷が落ちた。
まるで、ロイの声に呼応したかのように。
路地の石畳が砕けて、白い閃光が兵士たちを呑み込むと、怒号と悲鳴が連なり、硝煙と焦げた石のにおいが路地に満ちた。
包囲の輪は引き千切られたように割れていたが、ロイの立つ場所だけは、細かい石の破片と塵が降りそそぐだけだった。
雷鳴が鳴りやまぬうちに、ロイの左頬を何かが撫でていった。風ではない、どこか生ぬるい感触だった。
ロイは振り返らない。轟雷の隙間をくぐるようにして、突っ切った。カーディナルの声が遠ざかる閃光の向こうで聞こえた気がしたが、雷鳴にかき消された。
路地を抜けた先、王都の澄みきった空気がロイを出迎えた。




