第75話 一年後
一年ってのは、うちの帳面で数えると丼で数万杯だ。暦で数えるより、よっぽど実感がある。
あれから一年。うちの深夜は変わらない。仕込みをする。灯りを入れる。丼を出す。変わったのは、店の外の世界のほうだ。今日はそれが、まとめて店先に届いた日だった。
市場の仕入れも変わらない。変わったのは魚屋の親父の挨拶くらいだ。『よう、世界の大将』。やめてくれと三百回は言ってるが、直る気配はない。
夕方、欧州から荷物が届いた。差出人は『ヴァイス工房』。手紙と写真が一枚、それに向こうの水砥石が一本入っていた。
『ししょうへ。看板を上げました。屋根と研ぎ場の次ですから、順番は正しいはずです。五人、全員戻りました。行列は石畳の角を二つ曲がります。オムニ社の機械は運搬にだけ使っています。よく働きますが、研ぎの朝礼には出ません』
『追伸。こちらにも弟子ができました。わたしを、ししょうと呼びます。まだ早いと言ったのですが、順番だからと聞きません』
順番だから、と来たか。誰に似たんだか。研ぎ場の水音が、海の向こうでもう一段増えたわけだ。
写真の中で、石造りの工房に木の看板が掛かってる。壁には古い包丁と新しい包丁が、あの日のまま並んで掛かっていた。行列の先頭は湯気の立つ椀を持ってる。まかないまで暖簾分けした覚えはないんだが、まあ、そこも含めて技だ。
行列が角を二つ、ね。うちの防波堤といい勝負だ。弟子の店を師匠面で自慢する趣味はないんで、返事は品書きの裏にでも書く。砥石はありがたく研ぎ場に下ろした。いい石だった。腕の立つ職人は、贈り物まで実用で寄越す。
開店前には、店の裏に軽トラが停まった。
「納品に伺いました」
鳴海だ。荷台から降ろされたのは、研ぎ直しに出していたうちの予備の包丁が三本。それと――作業着の若いのが二人。直角に頭を下げた。
「今月の駆け込みです。行き先が決まるまで、うちで預かります。……礼儀の研修に、一杯ずつ」
「研修費は取るぞ。並盛りの値段だけな」
「請求書は工房へ。経費で落とします」
律儀な男は、軽口まで経費で落とすようになった。看板のない工房は、いつの間にか若手職人の駆け込み寺と呼ばれてるらしい。辞めた口も潰れた口も、行き場を探してあの研ぎ場の水音を頼る。屋号より先に噂が育った。世の中の順番ってのは、たまに粋な仕事をする。
若いの二人は開店一番の丼を空にして、器を返す手つきまで直角だった。ああいうのは、じきいい職人になる。
零時前、こはくが端末を三つ提げて現れた。肩書きはいまや世界配信の顔だが、カメラの一番いい位置は今日も湯気に譲ってる。ぶれない画角ってのは、ああいうのを言う。
「大将、見てください! 審査部の切り抜き、今日も伸びてます。最短記録、更新で八秒です」
画面の中で、断定形の男が若い職人の手元を睨んでいた。
『本日は一点。全て決定事項だ。――合格。数値は見ていない。素材に頭を下げていた』
《出た、八秒》
《俺も落とされたい》
《この人に拾われた職人、もう三桁いるらしい》
職人審査部の名物審査員。審査の秒数が短いほど名誉だそうだ。世界中の職人が、あの断定形に落とされては研ぎ直して戻る。落ちた奴から工場の常連になるってんだから、審査なんだか営業なんだか分からん。
「それと例のドキュメンタリー、翻訳が今週で四十言語です! ガチで殿堂入りです」
一周年の夜に撮られた、二人だけの取材の話だ。俺は未だに最後まで見られた試しがない。湯気の映りは満点だったそうだから、文句は言わないでおく。
葛城さんは月に一度、報告書を持って列に並ぶ。今月の地図は、赤い印が三つ減っていた。
「各地の傷は順調に塞がっています。前例のない速度です。……功労者の欄は、今月も一行で足りました」
「役所の書類が一行で済むなら、上等だ」
「ええ。おかげさまで最近、胃薬の減りが遅いんです」
世界中の解体師。あの一行を書き換える予定は、当分ないらしい。いい役所仕事だ。
「大将、豚汁を大盛りで。今日は脂の乗りが先週よりいいですね」
流暢な日本語に振り返ると、ガルシアだった。一年も通えば、言葉ってのは胃袋から育つらしい。
「ずいぶん喋れるようになったな」
「ハイ。ワタシ、常連。……オカワリ、アリマスカ」
肝心なところだけ、カタコトのままだった。あれはもう口癖じゃない。屋号みたいなもんだ。今夜も丼が空く。常連の名乗りは、名刺より通りがいい。
で――店の隣だ。
うちの隣には、二号車が停まってる。看板は『まかべ食堂 二号車』。字は俺のじゃない。言い出したのは常連どもで、書かされたのは店主見習いだ。書き上がるまで三十枚、下書きしたのは知ってる。
見習いは今夜も開店前に、その看板を磨いてる。人類最強の肩書きは今も現役で、呼ばれれば世界のどこへでも行く。ただし深夜のこの位置だけは、譲らない持ち場だそうだ。
「……新メニュー、出したい」
「見習いの分際でか」
「……常連の、リクエスト。寒い日の、あれ」
「賄いの生姜粥か。あれはまだ火加減が俺の手のうちだ」
「……客の顔なら、覚えた。全員。食べる量も」
そっちの帳面は、俺より正確かもしれん。何しろ本人が、この店で一番食ってきた側だ。
「うちは美味いかどうかしか聞かない店だ。作ってみろ。判定はする」
「……望むところ。試作は、今夜の賄いで」
「賄いは俺の持ち場だぞ」
「……今夜だけ、交代」
見習いの丼は、いまのところ俺の八割ってとこだ。伸びる角度が怖いんで、本人には言わない。師匠面ってのは、黙ってる時間のことを言うんでね。
二号車ができた日、洗い場の湯呑みが二つ、揃いで増えた。帳面の増え方としては、悪くない部類だ。
零時前。
仕込みが上がる。湯気が立つ。防波堤の先まで、今夜も列が見えた。
常連の顔と、初めての顔が半々ってところだ。時差ボケの外国人まで、最後尾の札を律儀に回してる。世界は今夜もよく食う。うちの帳面は、当分めくり甲斐がありそうだ。
一年で、世界はけっこう変わった。うちの深夜は変わらない。どっちも悪くない速度だと思ってる。
隣で、見習いが手を拭いた。二号車の窓が開いて、湯気がもう一筋立つ。
「……そろそろ」
「ああ。――行くか」
二台のフードトラックに、同時に灯りが点った。




