第74話 一周年感謝祭
一周年ってのは、暦の上じゃただの三百六十五日目だ。うちにとっては、開店以来の大仕事の日でもある。
朝から市場を三往復した。帳面の仕入れの桁は、去年の初日の十倍を超えた。同接三人の店の仕入れじゃない。世界中の腹ペコどもの分だ。
貼り紙は一枚だけにした。
『本日、一周年感謝祭。丼は全品、祭り価格。新店則は平常どおり』
手伝いは断った。断ったのに、昼前から勝手に増えた。
リンは仕込み台の隣で、黙々と根菜の皮を剥いている。ガルシアは寸胴を三つ、片腕で運んだ。こはくは店の表で、カメラの位置に一時間悩んでいる。
「大将! 今夜は歴史に残る夜なので、画角もガチで歴史仕様です!」
「うちの画角は湯気が主役だ。人間は添え物でいい」
夕方には、行列が防波堤の先まで伸びた。開店以来の最長記録だ。並んでる顔ぶれの物騒さも、たぶん世界記録だった。
竜宮の船で四杯食ってた槍の姉さんがいる。その後ろは氷の爺さんだ。護衛だか客だか分からん連中が、行儀よく最後尾の札を回してる。
零時。灯りを入れた。
赤いランプが点いて、こはくが息を吸った。
「――まかべ食堂、一周年感謝祭。開店です!」
《おめでとおおおお》
《一年前、ここに三人しかいなかった事実》
《古参ぶっていいのは大将と俺とあと一人だけ》
《世界から来ました》
弾幕は初手から祭りだった。同接の桁は、見ないことにした。数えると手が止まる。
丼を出す。空く。また出す。
いつもの仕事を、いつもの倍の速さで回す。隣でリンが盛り付けを受け持って、ガルシアが空いた丼を下げていく。役割を決めた覚えはないんだが、店ってのは一年も回すと勝手に段取りが育つらしい。
葛城さんは列に並んで、食券の順番どおりに入ってきた。
「来賓席をご用意しましょうかと部下が申しまして。断っておきました。……前例がありませんので、客として参りました」
「いい判断だ。うちに、来賓席の前例はない」
役人の物差しも、たまには使いようだ。
鳴海は従業員三人を連れて来た。四人とも作業着で、手土産は熨斗つきの砥石だった。
「開店祝いのお返しです。それと――閉店後に、店の包丁を研がせてください。四人がかりなら、朝までに終わります」
「勘定は」
「一周年のご祝儀です。それと――授業料の、残りです」
律儀な男の祝儀は、現金より重くて使い勝手がいい。ありがたく受け取ることにした。
ミルズは列の真ん中あたりから現れた。並んだらしい。五十二の世界的経営者が、折り畳み椅子もなしで二時間。
「本日は一点。全て決定事項だ」
「注文がか」
「並盛りを一杯。審査ではない。……客だ」
数値の王様は、今夜は数字を一つも連れてこなかった。丼が空いて、男は短く言った。
「――再現不能、と記録しておく」
「機械が気の毒だ。やめてやってくれ」
宴の途中で、こはくが画面を切り替えた。
「ここで、欧州から中継です!」
モニターに、石造りの研ぎ場が映った。向こうは朝の色だ。時差の先で、うちの元・居候がエプロン姿で手を振っている。
『ししょう! 皆さん! 一周年、おめでとうございます!』
「工房はどうだ」
『屋根を直しました。研ぎ場には毎日水を流しています。……五人のうち二人から、戻るという返事をいただきました』
「順番が正しいな」
『はい。看板は、まだ先です!』
画面の端に、古い包丁と新しい包丁が並んで掛かっていた。荷物一本分の重さは、ちゃんと向こうで働いてるらしい。
《リズちゃん立派になって……》
《研ぎ場に朝日はずるいだろ》
《帳面の九人目、続きを書いてるぞ》
そして夜のピークに、あれが始まった。
カウンターの端と端。リンとガルシアの前に、同時に大盛りが置かれる。新店則――完食が続く限り、青天井。世界一位と序列一位が、無言で箸を取った。
《始まった》
《世界大戦だ》
《審判は新店則》
三杯目まで互角。四杯目で岩の箸が一拍遅れた。五杯目の湯気の向こうで、リンは涼しい顔をしていた。
「マイリマシタ。リン、ベツバラ、ドコデスカ」
「……企業秘密」
勝負の後の丼は、二人とも一粒残らず空だった。店則ってのは、守られてるときが一番美しい。
宴が頂点に来た。
こはくがカメラの前で、音頭の段取りを仕切り出す。
「同接三人から始まった店の、一周年です! 乾杯の発声は――もちろん大将!」
押し出される形で、カメラの前に立たされた。柄じゃないが、今夜ばかりは逃げ場もない。
息を吸ったところで、隣に気配が立った。
リンだった。カウンターの内側。俺の隣。盛り付けの流れのまま、当たり前の顔でそこにいる。
一年前、この線の内側は俺一人の持ち場だった。線を回り込んだのは俺が先だが――向こうは、もっと自然に越えてきた。
「……乾杯は、二人でやるもの」
「誰が決めた」
「……今、私が」
弾幕が沸騰した。
《隣ーーーー!》
《公式が公式の位置にいる》
《一年でここまで来たか……》
《早く乾杯してくれ。目に汗かいてる》
丼の代わりに、湯呑みを掲げた。
「――一周年だ。今日まで通ってくれた腹ペコども全員と、うちの丼になってくれた素材の全部に」
「……乾杯」
店の中と画面の向こうと、時差の先が同時に鳴った。
シャッター音と歓声と、丼の音が重なる。うちの一年分が、ぜんぶ一晩に詰まったような音だった。
宴が引けたのは、夜明け前だった。
鳴海たちは研ぎ場を借りて、もう水音を立てている。ガルシアは椅子を積み、葛城さんは会計の列に最後まで並んでいた。リンは湯呑みを二つ洗い、並べて伏せた。
こはくが、カメラの赤いランプを落とした。
落としてから、こっちへ来た。今夜一番の、仕事の顔だった。発掘者ってのは、獲物を見つけた日にこういう目をする。
「大将、リンさん。……最後に、二人だけの取材をさせてください」




