第76話 今日も開店
開店準備ってのは、手順が九割だ。
寸胴に火を入れる。タレの瓶の口を拭く。開店の日から継ぎ足してきた一本槍で、こいつにだけは保険が利かない。まな板を据えて、包丁を並べる。棚の上では布に包まれた先代が眠り、研ぎ上がった二番手が今夜も出番を待ってる。
順番は、初日から変えていない。場所が駐車場でも母船の甲板でも、この順番だけは崩れなかった。手が覚えてる順番ってのは、暦より正確だ。
機材は今夜もスマホが一台。三脚の代わりは砥石の空き箱、二段重ねだ。こはくが何度も新品の機材を抱えてくるが、全部丁重に返してある。映りゃいいんだ、映りゃ。
待機画面の数字は、零時前だってのにもう六桁を回っていた。
視聴者三人から始めた配信だ。最初のコメントは《なんの配信?》。二人目は法律の心配をして、三人目は最後まで無言だった。――その無言の一人は、いま隣の二号車で湯気を上げてる。世の中ってのは、たまにできすぎた段取りを組む。
庇の下から外を覗く。
防波堤の先まで、今夜も列だ。竜宮帰りの顔がある。初見の学生がいる。岩みたいな大男が、列の脇で整理の札を配って歩いてた。
「札は配り終えました。今夜は三巡というところでしょう。……ワタシ、常連」
「常連は座って待つもんだぞ」
「座って待つ時間で、係ができます。オカワリ、アリマスカ」
「開店前から予約するな」
誰が任命したんだか知らんが、あの図体が歩いてるだけで割り込みは出ない。人件費のかからない防波堤だ。
列の先頭では、夜勤明けの男が缶コーヒー片手に欠伸をしてた。開店二日目から並んでる、うちの生き字引だ。
「大将、二号車で粥が出るって噂を聞いたぞ」
「噂が早すぎる。まだ判定も済んでない」
「じゃ、判定が通ったら二杯目に食う」
通る前提で話すな。……まあ、通るんだろうが。
こはくは端末を二つ提げて、庇の下に滑り込んできた。
「大将、ガチのニュースです! 例の四十秒クリップ、今日で再生一億です!」
「四十秒で一億、ね」
「初配信の記念日に一億ですよ? もう運命です! 一言ください、一億の感想!」
「……売り物は丼だけだ」
「定型文いただきました! これが聞きたかったんです!」
あの断り文句、いつの間にか祝辞の扱いになってるらしい。配信文化ってのは、最後までよく分からん。
記念日、と言われて指を折る。なるほど、あの晩から今日で、ちょうどそういう勘定になるらしい。祝いの品は特にない。うちの祝いは、いつだって丼で出す。
仕込みの湯気で、庇の裏が白く曇った。それで、ふと思い出した。
地下二階の、素材倉庫だ。
あの日の倉庫も、こういう白だった。蛍光灯の白だ。段ボール半分の荷物を台車に載せて、頭を下げる後輩たちの前を通って、それで十年が終わった。
あの後輩たちは、いまじゃ方々の解体場で班を持ってる。この前も一人、列に並んでた。飛竜の翼膜は付け根から三センチ上――ちゃんと下の代に伝えてるそうだ。技ってのは、教えた先で勝手に歩いていく。
出がけに、倉庫の灯りを消したのは俺だ。スイッチの位置なんか、目をつぶってても押せた。
あのときは何も考えちゃいなかった。十年消してきた灯りを、いつもの癖で消しただけだった。
灯りってのは、消すほうに覚悟がいる。誰かの職場の灯りなら、なおさらだ。
点けるほうは――簡単だ。
台所のスマホ一台でも点く。視聴者三人でも点く。次の晩も、その次の晩も、何の覚悟もなしに点けられる。
だから俺は、今夜も点ける。それだけの話を、ずいぶん長く続けてるだけだ。
「……生姜粥。直した。判定、もう一回」
隣の窓から、見習いが小皿を差し出してきた。人類最強は今夜も仕込みが早い。
「一晩で直してくるか、普通」
「……客の舌は、待たない。教わった」
都合のいいところだけ教わりやがる。小皿を受け取って、一口。
……火加減が、俺の知ってる角度で入ってた。米の立ち方まで、うちの賄いの顔をしてる。
「どうだ、って顔をするな」
「……してない」
してた。丼と同じで、顔にも盛りってもんがある。
「品書きに足しとけ。二号車の一番下にな」
「……一番下から。順番、覚えた」
「……あと、今夜の賄いは大盛りで」
「見習いの賄いに上限はないんだったか」
「……完食が、条件。約束どおり」
合格の二文字は言わないでおいた。師匠面ってのは、黙ってる時間のことを言うんでね。洗い場では揃いの湯呑みが二つ、先に湯気を上げてた。
《二号車の粥、今夜からだって》
《どっちに並ぶか迷う》
《両方食えばいいだろ》
《天才かよ》
弾幕ってのは、たまに正しい。
その弾幕も、ずいぶん様変わりした。日本語の隙間に、読めない文字が何割も混ざって流れる。読めなくても分かる。腹が減ってる文字ってのは、万国共通で丸っこい。
列の中ほどには、見慣れた背広もいた。今夜は報告書なしの、ただの客だそうだ。役所の人間が深夜の列に並ぶのはどうなんだと思わなくもないが、まあ、腹に役職はない。
海の向こうの研ぎ場は、いまごろ夕方の行列だろう。鳴海の工房からは、今週も研ぎ直しの包丁が三本戻ってきた。刃を見りゃ分かる。いい水音で研いである。
世界の傷は、世界中の刃が塞いでる。うちの深夜は、うちの寸胴が守る。持ち場ってのは、その配分でいい。
零時、二分前。
寸胴が上がる。湯気が立つ。列の先頭が、そわりと動く。
スマホの画面に指を置いて、一拍だけ止めた。
視聴者三人の夜も、同接三百万の夜も、この一拍だけは同じだ。誰もいない台所で頭を下げた、あの晩からの癖だ。
「えー、『おっさんの解体キッチン』。今日はC級魔猪のロースからだ。――ちょうど熟成が上がったところでな」
初回と同じ口上にしたのは、俺なりの祝儀ってやつだ。気づいた奴だけ笑えばいい。
《初回と同じで草》
《気づいた俺、古参》
《古参マウント大会が始まるぞ》
《いいから早く。腹が減った》
気づく奴は気づくらしい。けっこうなことだ。
隣で、二号車の窓が開いた。見習いが手を拭いて、まっすぐ前を見る。いつかの夜と違って、フードは被っていない。
ずいぶん遠くまで行って、ずいぶん近くに帰ってきたもんだ。――俺も、あいつもだ。
列の先頭で、盛大に腹の音が鳴った。世界ってのは、今夜も腹を減らしてる。ありがたい話だ。
配信ボタンを、押す。
カメラの赤いランプが点った。
「さて――今日も開店だ」
湯気の向こうで、最初の丼が渡る。
深夜零時。二台ぶんの看板の灯りが、防波堤の先まで続く列を、静かに照らしていた。




