第69話 一世一代の仕込み
仕込みってのは、隠し事に向いてない仕事だ。
湯気は上がる。匂いは漏れる。冷蔵庫の一番奥に布を掛けた箱を置けば、置いたという事実そのものが残る。隠すつもりはなかったが、話すつもりもなかった。中身は、渡す相手が最初の客だ。それが筋ってもんだろう。
市場のおやじから譲ってもらった今朝一番は、うちの冷蔵庫で一番いい場所に納まった。ここから先は、俺の持ち場だ。
店はいつもどおり、零時に開けた。特上の仕込みを理由に通常営業を止めたら、それはもう俺の返事じゃなくなる。いつもの店の、いつもの延長線に置く。そう決めていた。
で、初日の営業だ。弾幕は五分で気づいた。
《大将、奥の寸胴なに》
《いつもの仕込みと火加減が違う》
《出汁の匂いが画面越しに変わった気がする》
《↑画面から匂いを取るな》
「気にするな。ただの仕込みだ」
《ただの仕込みに布は掛けない》
《【悲報】まかべ食堂の店主、隠し事が下手》
《↑世界が例の報告書で騒いでる日に、こっちは大将の隠し事の話》
《手元は世界一なのに嘘は三流》
悪かったな。嘘の仕込みだけは、やったことがない性分でね。
仕込み自体は、静かに進んだ。
竜宮の朝獲れは、筋の目が絹みたいに細かい。急かせば裂けるし、待たせれば痩せる。温度は一度刻み、塩は指先の重さで量る。出汁は三種を別々に引いて、合わせるのは出す直前――と、頭ん中の段取り帳だけが際限なく饒舌になっていく。
手が決まってる仕事ってのは、いい。余計なことを考えずに済む。
考えかけると、端の席が目に入る。それで手が半歩早まる。職人失格だ。息を整えて、また温度計を見る。
二日目。リズが厨房で固まった。
「ししょう。この筋の入り方……竜宮の朝獲れ、それも一番いい柵じゃないですか」
「よく見えたな。目が育ってる」
「ごまかされません! わたし、下拵えを手伝わされてるのに、中身を教えてもらえないんですが!」
「手は貸せ。口は出すな。それが下拵えの作法だ」
「一族の家訓と同じことを言わないでください!」
言うことは古風なくせに、頬の膨らませ方は年相応だった。弟子ってのは、こっちの都合のいい時だけ育つ。
三日目の昼。店の前に、見覚えのある男が立っていた。
「ご無沙汰しています。工房の物件を見に上京しまして……そのご報告に、と」
鳴海だった。頭を下げる角度が、昔より深い。報告の続きを聞く前に、エプロンを放った。
「ちょうどいい。骨、外してくれ」
「……は?」
「腕は選抜の時に見てる。うちの厨房は今、猫の手より職人の手が欲しい」
鳴海は五秒固まった。それから黙って上着を畳み、袖をまくった。数字の男は、いつの間にか手の男になっていた。
骨外しは丁寧だった。丁寧すぎて遅い。それでも、素材への頭の下げ方は本物だ。地方の解体場は、いい仕事をしたらしい。
「物件は、どうだった」
「……身の丈に合う、小さいのを見つけました。その話は、また改めて」
夕方、弟子と助っ人が作業台の端で協議を始めた。
「……鳴海さん。ししょうは何を仕込んでるんでしょう」
「わかりません。ただ、工程から逆算すると――一杯分です。この物量と手間で、たった一杯分」
「一杯……? 誰に出す一杯なんですか」
「それが分かれば苦労しません。数字はそこまで教えてくれない」
聞こえてるぞ。聞こえてるが、教えてやらない。教えたら、こいつらの包丁が確実に緩む。
四日目には、海の向こうから戻ったガルシアまで様子を見に来た。再訪の約束を、こんなに早く果たす奴があるか。
「タイショウ。ソノ寸胴、オカワリ、アリマスカ」
「できない。一杯きりだ」
「……セカイハ、キビシイデス」
肩を落として、通常の丼を三杯食って帰った。世界は厳しくても、うちの営業は健在だ。
弾幕は日に日に考察スレと化した。新メニュー説。一周年前倒し説。はては、テレビ出演説。正解に近い書き込みは、不思議とひとつもなかった。世界中の目ってのは、案外節穴だ。ありがたい話だが。
閉店間際には、こはくが来た。珍しく、カメラは回していない。
「まかべさん。今週の配信、ずっと『仕込み枠』ですけど。ガチで何も説明しないんですね」
「話すことがまだない」
「……ふうん。『まだ』、ですか」
こはくは笑った。いつもの笑い方より、二割ほど静かだった。帰り際、カウンターに小さな紙袋だけ置いていく。
「新品の手ぬぐいです。大一番の前は道具を新しくするって、リズちゃんに聞いたので」
「……いいのか」
「私、発掘した側ですよ? 推しの大一番に手ぶらは、ないです」
夜風と一緒に出ていく背中に、頭を下げた。発掘者ってのは、たまに察しが良すぎる。
その間も、リンは毎晩いつもの席で丼を空けた。
「……おかわり」
「あいよ」
特上の話は、どちらからもしなかった。注文票は俺の胃の裏に貼りついたままだ。リンはそれを急かさない。ただ、帰り際の「ごちそうさま」の頭が、一日ごとに一つずつ深く下がっていった。
一度だけ、リンの視線が厨房の奥の布へ流れた。すぐ丼に戻った。何も聞かない。その我慢の分だけ、こっちの包丁は正直になる。
待たれてる。冷めないうちに――あの晩の言葉が、背中で火加減を見てる。
特上ってのは、値段の話じゃない。持ってるもんを全部出す、という宣言の名前だ。素材相手なら十年以上やってきた。人相手にやるのは、生まれて初めてだった。
五日目の夜明け前。
厨房は、しんとしていた。リズも鳴海も帰した。ここから先は、一人の持ち場だ。
小鉢に一匙。口に運ぶ。
長い息が、勝手に出た。
三十四年の道具箱を全部ひっくり返して、まだ足りない分は、この店で客からもらったもんで埋めた。倉庫の十年も、深夜の配信も、丼の湯気の向こうの顔も。ぜんぶ濾して、澄ませて、一杯の底に沈めてある。
できた、とは言わない。職人が自分でそれを言ったら、味が緩む。ただ、包丁を置く手が、今夜はやけに軽かった。
その夜の営業終わり。最後の常連を見送って、暖簾を下ろした。
リンだけが、端の席に残っている。空いた丼の前で、両手を膝に置いて。いつもどおりの顔で、いつもどおりじゃない姿勢だった。
「……今日のも、美味しかった」
「そりゃ何よりだ」
布巾を置いた。こはくの手ぬぐいを、首に掛け直す。息をひとつ。
仕込みの総仕上げってのは、いつだって声掛けだ。
「リン」
「……ん」
「明日、閉店後に来てくれ」




