第68話 ぜんぶ言う
深夜三時の店ってのは、音の在庫が少ない。
寸胴の湯気。冷蔵庫の唸り。それから、カウンターの向こうで誰かが息を整える音。今夜の棚卸しは、それで全部だ。
リンは端の席に座ったまま、まっすぐこっちを見ている。空いた丼はもう下げた。つまり今、この人の前には何もない。丼のないリンってのは、たいてい黙る。今夜は、違った。
――だから、ぜんぶ、言う。
そう宣言されてから、体感で味噌汁が一杯冷めるくらいの時間が経っている。「ぜんぶ」の中身を、俺は三つ予想していた。大盛りの上限交渉。事務所との揉め事の報告。あとは、品書きへの要望だ。どれが来ても受けて立つ構えだった。
構えは、初手で崩された。
「……言うって、決めてた。竜宮に行く前から」
「聞こう。うちは注文なら何でも聞く店だ」
「……注文じゃ、ない」
「なら約束の続きか。大盛りの――」
「……違う。それは、あと」
二度目の却下だった。逃げ道を、先回りで塞いでいく。竜宮の主より手強い。
リンは膝の上の手を一度ほどいた。ほどいて、また組んだ。箸を持ってる時には絶対に見せない、不器用な手つきだった。
「……最初の夜。ここで、賄い丼を食べた」
「雷鹿のな。よく食う子だと思った」
「……あの頃の私は、強さしか持ってなかった」
声は静かだった。棚から道具を一本ずつ下ろすみたいな話し方だった。
「……強いって言われるたびに、削れてた。何が削れてるのかも分からないまま。……ここだけが、美味いかどうかしか聞かなかった」
「そういう店なんでね」
「……知ってる。だから、通った」
膝の上で、指が一本折られた。
「……事務所に止められた時も。血の匂いを連れて帰った夜も。ここに来れば、いつもの席があった」
いつもの席ってのは、客が作るもんだ。俺はただ空けてただけ――そう言いかけて、やめた。今は俺の講釈の時間じゃない。
息を吸う音がした。
「……倒れた夜に、助けてくれた手。核の前で、八時間震えなかった背中。怖くないのと聞いた私に、あんたがいるからなと返した声」
息継ぎは、一度だけだった。
「……ぜんぶ、数えてた。ずっと」
一本。また一本。この人の言葉は、いつも棚卸しだ。数え間違いを、しない。
「……前倒しは、しないって決めてた。終わったらの話だから。……終わった。だから、今」
膝の上の手が、ほどかれた。
「……あなたのことが、好き。飯も、手も、背中も、ぜんぶ」
寸胴の湯気が、ひとすじ上がって消えた。
言い切った顔が、そこにあった。息は浅い。けど、目は逃げてない。八時間の解体より、よっぽど度胸の要る仕事をした直後の顔だ。
包丁なら、研ぎ方を知ってる。素材なら、目の通し方を知ってる。三十四年生きてきて、この状況の捌き方だけは、道具箱のどこを探しても入ってなかった。
「育ち盛りか」で受けられる話じゃない。「大盛りの上限か」でも無理だ。逃げ道は全部、先回りで潰されてる。丁寧な仕事だった。段取りのいい告白ってのを、生まれて初めて食らった。
布巾を畳んだ。もう畳んであったやつをだ。
リンは急かさなかった。待つのが得意な人だってことは、今夜の開店前から知ってる。
倉庫の十年を思い出した。誰も見てない場所で、素材と向き合ってきた。見られてないことには、慣れてたつもりだった。
見られてた。それも、ずっと。手と、背中と、飯を。
湯気の向こうの顔を見る。人類最強が、丸腰でカウンターに座ってる。剣もフードも順位も置いてきて、言葉だけ持ってきた。それがどれだけの覚悟か、分からないほど鈍くはない。……いや、鈍かったんだろうな。今までは。
即答は、できた。それらしい言葉も並べられた。
やめた。
解凍の甘い素材を火にかけるのと同じだ。一本ずつ数えて運ばれてきた言葉に、生煮えの返事を出すわけにはいかない。うちの流儀に反する。
「……リン」
「……ん」
「返事は、特上で払わせてくれ。少し、仕込みに時間がかかる」
我ながら、どこまでも飯屋の返事だった。
けど、嘘のない返事でもあった。うちで一番高いもんを、時間をかけて出す。この言葉への釣り合いの取り方を、俺は他に知らない。
リンは笑った。声を立てずに、目だけで。初めてうちの丼を空にした夜と、同じ顔だった。
「……逃げる、気は」
「ない。仕込むと言ったら仕込む性分でね」
「……知ってる」
リンは席を立った。立ってから、思い出したように付け足す。
「……待つのは、得意。でも」
「でも?」
「……お腹は、空く」
「善処する」
ドアの前で、もう一度だけ止まった。
「……返事、急かさない。でも」
「今夜は『でも』が多いな」
「……冷めないうちに、お願いします」
飯の話じゃないことくらい、さすがに分かった。
「……言った。ぜんぶ」
「あいよ。確かに受け取った」
「……ん」
頷き方が、いつもより一つ深かった。夜風の中に、フードのない背中が消えていく。人類最強の背中は、来た時より軽く見えた。
静かになった店で、椅子に座った。座って、すぐ立った。
胃の裏あたりに、注文票が一枚貼りついてる。品名は特上。数量は一杯。納期は未定。ただし、早いほうがいい。
やることの分からん時に、職人がやることは昔から一つだ。
仕込みだ。
――翌朝。
夜明けの市場ってのは、正直な場所だ。
いいものは高くて、足が早い。迷った奴から順に、いいものを逃していく。競りの声の合間を、氷と鱗の匂いが流れていた。竜宮が豊漁になって以来、この市場の朝は世界一贅沢だ。
この道三十年の卸のおやじが、俺の顔を見て二度見した。
「大将んとこ、開店は零時だろ。何時間前に仕入れる気だ」
「今日は特別でね」
「何を作る」
「特上を、一杯だけ」
おやじが眉を上げた。うちの品書きに特上はない。当たり前だ。今から作るんだから。
「……ほう」
おやじはそれ以上聞かなかった。代わりに店の奥へ引っ込むと、布を掛けた箱をひとつ抱えてくる。
「三十年やってりゃ、そういう顔で来る客は分かる。――見てけ。竜宮帰りの、今朝一番だ」
布の下の面構えを見た瞬間、俺の目が職人のそれに切り替わった。
一世一代の仕入れだ。今日は、値札を見ない。
――この数日後、店の常連どもと世界中の弾幕が大騒ぎになることを、この時の俺はまだ知らない。




