第67話 いつもの時間に、いつもの店に
行列ってのは、店の体温計だ。
長さで景気が分かる。顔ぶれで、歴史が分かる。零時前のうちの駐車場は、その体温計が振り切れていた。
列は駐車場を二周して、土手の向こうまで折れている。見慣れた顔の間に、空港帰りのスーツケースが挟まってた。聞こえる言語は、三つ目で数えるのをやめた。竜宮の母船と、同じ匂いの列だ。
開店三十分前に、貼り紙を剥がした。
『明後日零時、再開。豚汁あります』
役目を終えた紙は、道具箱の底へ。南の海の一枚と、世界の傷の報告書の上だ。うちの道具箱は、ずいぶん物持ちがよくなった。
厨房では、リズが寸胴の前から動いていなかった。言いつけどおり、文字どおり一歩も。
「ししょう。骨は白く濁る手前で、火を落としてあります」
「味見は」
「百回しました。……九十回目から、分からなくなりました」
「上等だ。分からなくなってからが、仕込みでね」
「……手が、震えてます」
「震えは味に出ない。出るのは、迷いだけだ」
「はい。一歩も、引きません」
零時。看板に灯りを入れた。
拍手ってもんが、駐車場から上がった。飯屋の開店で拍手が起きるのは、世界でうちくらいだろう。照れくさいんで、寸胴の蓋を開けて誤魔化した。湯気が、いい仕事をした。
カメラの赤いランプが点って、こはくの声が夜に跳ねる。
「まかべ食堂、ただいま再開でーす! 世界同時中継、現在の同接は――見なかったことにします!」
《おかえり、本店》
《豚汁のために有休を取った社会人がここに》
《最後尾、土手の向こうって本当ですか》
《ワタシ、常連》
《↑序列一位が電波で並んでて草》
《オカワリ、アリマスカ》
《↑電波にはありません》
海の向こうの常連は、弾幕で列に加わる気らしい。輸出した覚えのない文化が、また増えた。
先頭は、夜勤明けの男だった。世界がどうなろうと、ここだけは変わらない。
「大将! 昨日の昼から並んだぞ!」
「誇るな。寝ろ」
「豚汁のためなら寝ん!」
こういう客で、うちの店は保ってる。
最初の椀は、決めてあった。
「リズ。初品出しだ。椀ごと、責任も持て」
「……はいっ」
夜勤明けの男がひと口すすって、黙った。長い。リズの背筋が、物差しみたいに伸びていく。
「――大将のと、ちょっと違うな」
「そ、それは……」
「けど、美味い。おかわりだ」
リズが頭を下げた。下げた顔を、なかなか上げなかった。弟子の初日ってのは、そういうもんだ。
中継車も来ていたが、あれは客じゃない。マイク片手に列へ割り込もうとして、古株どもに教育されていた。
「並ぶなら食う! 食わないなら帰る! はい復唱!」
「復唱させるな。うちは教習所じゃない」
列の中ほどには、見慣れた背広もいた。
「早めに来たつもりだったのですが……この位置です」
「だから言ったろ。海の向こうまで伸びてると」
「本日は公務ではありませんので。一人の客として、番号札に従います」
番号札を持つ手つきが、公文書より丁寧だった。役人ってのは、休みの日まで役人だ。
順番が来た葛城さんは、豚汁を半分まで空けてから言った。
「明日、例の報告書が公開されます。世界は少し、騒がしくなるかと」
「うちは関係ないね。明日も零時に開けるだけだ」
「……その一言を聞きに並んだのかもしれません。ご馳走さまでした」
残りの半分は、無言で空いた。器の返し方が綺麗な客だった。
丼を受け取る手の中には、砂漠焼けの腕もあった。竜宮で並んだ手順の持ち主だ。
「傷の手当ての、帰りか」
「あなたの国の傷を見に。……ついでに、味も」
「ついでで三時間並ぶな」
世界中の刃が、深夜の駐車場で丼を抱えてる。ちょっと前まで、客は夜勤明けと腹ペコの常連だけだった。妙な出世をしたもんだが、やることは変わらない。捌いて、よそって、美味いかどうかだけ聞く。
――ひとつだけ、空いたままの席があった。
カウンターの端。
誰かが座ろうとするたび、夜勤明けの男が黙って首を振る。理由を聞かれた古株どもは、口を揃えた。
「そこは、常連の席だ」
こはくが一度だけ、カメラをその席に向けかけて――やめた。発掘者ってのは、映しちゃいけないもんを知ってる。
零時を過ぎても、二時を回っても、フードの影は現れなかった。まあいい。常連の席ってのは、取っておく主義だ。
三時前。土手の向こうの最後尾が、ようやく店の前に辿り着いた。寸胴は三本目が空きかけてた。
最後の客を送り出すと、こはくが機材を畳みながら言った。
「同接、歴代一位でした。……あーあ。来ませんでしたね、今日」
「誰のことだか」
「はいはい、そういうことにしときます。私は帰って寝ます! 編集があるので寝ませんけど!」
どっちだ。
機材車を見送って、立ったまま寝かけてたリズも帰した。寸胴の底には、一人前だけ残してある。研いだ勘ってのは、こういう夜に限ってよく当たる。
暖簾をしまいに出て、手が止まった。
街灯の下に、立っていた。
フードは、被っていない。夜風に晒した素顔のまま、まっすぐこっちを見ている。
「……営業時間、過ぎた」
「常連は別枠でね」
「……列には、並んでない。並ぶと、騒ぎになるから」
「賢明だ」
「……代わりに、終わるのを待った」
「どれだけだ」
「……開店の、前から」
三時間どころじゃなかった。次からは裏で待てと言いかけて、やめた。この人の待ち方に、口を出す筋合いはない。待つと決めて待った顔をしてる。
リンは端の席に座った。座り方はいつもどおりだ。いつもどおりじゃないのは、膝の上で組まれた手だけ。
豚汁を、大盛りでよそう。ただいまの豚汁ってのは、うちの定番になりつつある。
「……いただきます」
箸の音だけの時間が、続いた。急かさない。うちは注文を聞く店であって、事情を聞く店じゃない。
丼の空く速さには、二種類ある。いつもの倍の夜と、半分の夜だ。今夜は後者だった。一口ごとに、何かを数えてるみたいな食い方だった。
空になった椀が、静かに置かれた。
「……美味い」
「なら、何よりだ」
「……ん」
膝の上で、指が折られていく。一本。二本。三本目で――止まらなかった。
リンが顔を上げた。
「……帰ってきた。いつもの時間に、いつもの店に」
「あいよ。約束どおりだ」
「……約束の、続き」
「大盛りの上限か」
「……それは、あと」
深夜三時の店に、寸胴の湯気だけが立っている。配信もない。弾幕もない。世界も、いない。カウンターを挟んで、常連が一人と店主が一人。それだけの夜だ。
リンは、ゆっくり息を吸った。
「――だから、ぜんぶ、言う」




