第66話 最後の傷
人災。
二文字ってのは、読むのに時間がかからない。なのに俺は、その頁をずいぶん長く開いていた。
付箋は几帳面に、頁の角と平行に貼ってある。こういう貼り方をする男が、こういう報告を運ばされる。世の中の人事は、だいたい間違ってない。
閉店後の店内。寸胴だけが、小さく湯気を立てている。壁際ではリズが、帳面を抱えたまま寝落ちしていた。鍋の前を離れるなとは言ったが、寝ろとも言ってある。弟子ってのは、都合のいい方を守らない。
上着を掛けてやってから、カウンターに戻った。
葛城さんは、湯呑みに手をつけないままだった。
「四十二年前です」
静かな声だった。
「各国共同の――『核の無力化計画』。当時、深層の核は災厄の源と考えられていました。摘出は不可能。なら、壊せばいい。そういう時代の判断です」
頁をめくる。実験は十七回。全部、失敗。核は壊れず、ただ深く傷ついた。計画は凍結。記録は機密。関係者は口を噤んだ。
傷だけが、残った。
「竜宮の壊死は、その最大で最後のものです。各地の特異ダンジョンの異常も、由来は同じでした。……我々が治療と呼んでいたものは、正確には」
「治療で合ってるよ」
遮る形になった。悪いとは思ったが、続きを役人に言わせる話じゃない。
「古傷の手当てだ。うちの業界じゃ、よくある仕事でね」
報告書に目を落とす。数字は正直だった。出力、深度、貫入角。読める。読めてしまうのが、嫌になる。
「刃は、誰が入れた」
「軍の掘削兵器です。解体師は、一人も呼ばれていません」
「だろうな」
頁のどこにも、職人の言葉がない。効率と、出力と、予算。それだけで、世界の臓器に刃を入れた。素材に頭も下げずに。
四十二年前か。俺が生まれる前だ。怒鳴り込む相手は、もう机ごと残っちゃいない。
湯呑みの茶が冷めていた。注ぎ直す。手が動いてるほうが、余計なことを考えずに済む。
「これは、表に出るのか」
「三日後に、全文が公開されます。竜宮の中継で、世界中が傷の存在を知りましたので。……もう、隠すほうが高くつくと」
「隠すのにも、予算の言葉かい」
「耳の痛い限りです」
役所ってのは、正直になるのにも手続きが要るらしい。それでも出すと決めた書類を、この人は自分で綴じて運んできた。綴じ方が重かったのは、そういうことだ。
「竜宮でな、先客の痕を見た」
「……石板の、ですか」
「ああ。数百年前の連中だ。あの解体痕、今なら読める。攻略の途中で折れたんじゃない。あれは傷を、塞ごうとした痕だ」
錆びた道具の並べ方まで、うちの道具箱と同じだった。これ以上は、ひとりの刃では届かない――あの一行は、遺言じゃなくて申し送りだったわけだ。世界の古傷の手当てってのは、俺たちが始めた仕事ですらない。ずっと前から、誰かが列に並んでた。
「で――各地の傷は、いくつ残ってる」
言いながら、腰が浮きかけた。頭の中で、タレの継ぎ足しの段取りが勝手に始まる。傷が残ってると聞くと体が動く。損な性分でね。
葛城さんが、初めて少しだけ表情を緩めた。
「その顔をされると思いまして、こちらを先に」
差し出された端末で、映像が流れ始めた。
どこかの砂漠の坑道。褐色の腕が、崩れかけた壁面から一枚を剥いでいく。見覚えのある手順だった。竜宮で、リズが泣きながら覚えたやつだ。
北の氷の海。防寒具の職人たちが、番号札の順で氷壁に並んでる。段取り表の書式に、見覚えしかなかった。
山あいの解体場。運搬と固定は機械で、刃だけが人間だった。オムニ社の新型は、いい道具の顔をしてた。
最後は、国内の古い解体場だった。壁際で、借り物の包丁が乾いてる。若いのに手順を教える背中は、カメラを一度も見なかった。
「竜宮帰りの解体師たちです。帰国したその足で、自分の国の傷に並びました。誰も、要請していません」
端末の画面が、世界地図に切り替わった。点の数は、両手じゃ足りない。
「小さな傷は十九。うち十一は、すでに処置が始まっています。残りにも、順番待ちの列ができているそうです」
列、ときたか。並ぶ場所を自分で選べるってのは、職人には何よりの贅沢だ。
背後で、リズが寝言を言った。
「……ししょう。一枚、剥げました……」
剥げてるのはお前の意識だ。いい夢なら、起こさない主義でね。
俺は浮きかけた腰を、椅子に戻した。
「――俺が全部やる必要は、もうないんだな」
「はい。世界は思ったより、手が多いようです」
寸胴が、こと、と鳴った。技ってのは、教えた先で勝手に育つ。育った先は、もう俺の知らない現場だ。
それでいい。それが、いい。倉庫の灯りをひとりで守ってた男には、上出来すぎる眺めだった。
「関係各国から、正式な謝罪の場を設けたいと申し入れが来ています。……あなたに対して、です」
「俺にか?」
「世界でただ一人、あの傷を治せた方ですので」
「治したのは、世界中の腕だ。俺は段取りを組んだだけでね」
「その段取りが、世界に一人ぶんの技術なのですが」
「なら尚更、断ってくれ。頭を下げる相手が、違う」
葛城さんの眉が、わずかに動いた。
「下げるなら、世界にだ。四十二年分の詫びってのは、口でも俺相手でも払えない。次の傷を作らないこと。傷を治せる職人を、二度と余らせないこと。――手で払ってくれ」
どこかで聞いた台詞の焼き直しだ。だが、いい台詞ってのはタレと同じでね。継ぎ足して使うに限る。
葛城さんは手帳を開かなかった。代わりに、深く長く頭を下げた。
「……その言葉ごと、上へ持っていきます。今度は、法案より速く」
顔を上げた葛城さんが、報告書の最後の頁を開いて、こちらに滑らせた。
「表彰はすべてお断りされましたので、せめて公文書に。……ここだけ、ご確認いただきたく」
功労者一覧、とあった。
筆頭の一行に、俺の名前はなかった。
――世界中の解体師。
肩書きなし。国籍なし。人数の欄は『不明』。役所の書類にしては、ずいぶん思い切った書き方だった。
「俺の名前は、どこにも載ってないのか」
「筆頭に、含まれております」
「……いい場所だ。列の真ん中ってのは、性に合ってる」
「前例がありません。ですので、作りました」
「あんた、いい仕事をするようになったな」
「あなたの仕事を、間近で見ておりましたので」
葛城さんは冷めた茶をようやく手に取って、ゆっくり飲み干した。
「……いただきました。では、明後日の零時に。今度は客として並びます」
「早めに来てくれ。最後尾は多分、海の向こうまで伸びてる」
戸口で一礼して、役人は夜へ帰っていった。
俺は報告書を閉じて、道具箱の底へ仕舞った。南の海へ行った日の、あの貼り紙の上だ。世界の傷の記録と、うちの臨時休業。重ねてみると、大きさの違いが分からなくなる。
評価ってのは、いつも遅れて届く。十年倉庫にいた俺が言うんだから、間違いない。四十二年は、さすがに待たせすぎだが。
表で、新しい貼り紙が夜風に鳴った。
『明後日零時、再開。豚汁あります』
世界の古傷には、もう職人の列ができてる。なら、俺の持ち場は決まってる。
零時の看板に、灯りを入れる仕事だ。




