第70話 特上、一丁
閉店作業ってのは、三十四年で一番数をこなした仕事だ。
なのに今夜は、下ろした暖簾を裏返しに畳んだ。畳み直して、息を吐く。営業はいつもどおりにやった。丼を出して、弾幕を捌いて、ガルシアの四杯目を止めた。いつもどおりにやれてたかどうかは、客に聞かないと分からないが。
今夜に限って、端の席は営業中ずっと空のままだった。律儀な人だ。腹まで、約束に合わせてきてる。
常連どもは妙に聞き分けよく帰った。こはくが最後に「今日のところは、帰りますね」と含みだけ残して出ていったが、何のことかは聞かなかった。発掘者ってのは、たまに察しが良すぎる。
配信の赤いランプは、閉店と同時に落とした。ここから先は、一杯きりの貸切だ。観客はいらない。
首には下ろしたての手ぬぐい。木綿はまだ固い。大一番の前は道具を新しくする――弟子の一族の教えは、悪くなかった。結び目を締めると、背筋が一本通る。
深夜三時。約束の時間に、いつもの足音がした。
リンはフードを被っていなかった。剣も提げていない。丸腰で入ってきて、いつもの端の席に座る。両手を膝に置くその座り方まで、あの雨の夜と同じだった。
「……来た」
「あいよ。ようこそ、貸切へ」
注文は聞かない。今夜の品書きは、一品だけだ。
厨房に立つ。息をひとつ。
不思議なもんで、包丁を握った瞬間に指先は静かになった。この道具にだけは、三十四年嘘をついてない。手が段取りを覚えてる。あとは、いつもどおりに出すだけだ。
五日間べつべつに育てた出汁を、ここでひとつに合わせる。湯気の立ち方が変わった。いい香りってのは、音のしない拍手に似てる。
五日寝かせた竜宮帰りに、火を入れる。倉庫の十年で覚えた目利き。深夜の配信で研いだ手順。客の「美味い」の数だけ直してきた味。持ってるもんは、残らず一杯に沈めた。
丼に盛る。湯気が、まっすぐ立った。
カウンター越しに、置く。
「特上、一丁」
リンは丼を見た。俺を見た。もう一度、丼を見た。
「……これ」
「最初の夜に出した、雷鹿の賄い丼。あれの全部載せだ」
「……食べるの、もったいない」
「冷めるほうがもったいない。うちの流儀だ」
箸が動いた。一口。
止まった。
二口目は少し急いだ。三口目で、リンの目から音もなく落ちた。最初の夜と同じだ。あの時は理由を聞かなかった。今夜も聞かない。うちは、そういう店だ。
丼は空になった。米の一粒も汁の一滴も残っていない。リンは両手を合わせた。
「……ごちそうさま」
「お粗末さん」
「……いちばん、美味しかった。今までで」
「そりゃ何よりだ」
いつもの応答。いつもの湯気。ここまでは、段取りどおりにできた。
問題は、ここからだ。五日かけた手順書に、この先のページはない。
布巾を置いた。手ぬぐいの結び目を直す。直す必要はなかったが、手が何かを欲しがった。
カウンターってのは、線だ。俺の持ち場と客席を分ける線。倉庫の壁がそうだったように、俺はずっと線のこっち側から人を見送ってきた。出すばっかりで、受け取る側に回ったことがない。
線を、回り込んだ。
リンの目が動きを追う。皿を下げる動線じゃないことくらい、この人には分かる。小さく息を呑む音がした。
隣の席の前に立つ。思えばこの席は、いつも空いてた。満席の夜も、行列の夜も、なぜかここだけは。
口を開いた。生涯分の口下手が、いっぺんに詰まった。
「リン。その……だな」
「……ん」
「うちは美味いかどうかしか聞かない店だが――」
息を吸った。素材に頭を下げる時と、同じ深さで。
「――今日だけは、もうひとつ聞かせてくれ。……隣、空いてるか」
寸胴が小さく鳴った。
リンの答えは短かった。この人の言葉はいつも短い。短くて、数え間違いがない。
「……ずっと、空けてた」
座った。
カウンターの内側から十年見てきた店と、まるで違う景色だった。湯気は向こうから来る。厨房は遠い。なるほど。客ってのは毎晩、こんな上等な席に座ってたのか。
「……特上の、お返事は」
「今のだ。……足りなかったか」
「……ううん。特盛だった」
リンが笑った。声を立てて。初めて聞く種類の笑い方だった。
肩と肩の間に、拳ひとつ分の隙間。詰め方が分からなくて、そのままにした。そうしたら、こつんと頭が乗ってきた。距離ってのは、詰められる側にも権利があるらしい。
手ぬぐいの端を、リンの指がつまんだ。
「……新品」
「ああ。大一番用でね」
「……いい職人は、道具で分かる」
誰の受け売りだ、それは。聞くだけ野暮なので、やめておいた。
「……ねえ」
「なんだ」
「……お腹が空いたら、また作って」
「あいよ。何年分でも」
「……何十年分」
「……善処する」
それで話は済んだ。世界一の告白も返事も、うちの店ではだいたい飯の話に化ける。それでいい。うちはそういう店で、俺たちは、そういう二人だ。
静かな夜だった。
静かな、はずだった。
ガタン、と。
表で何かが盛大に崩れた。続いて、押し殺しそこねた声の山。
「ちょっ、リズちゃん押さないでください!」
「わたしじゃありません! ガルシアさんの肩が岩なんです!」
「スミマセン。ワタシ、ズッコケマシタ」
「みんな声が……っ。あ、鳴海さん! 一人だけ逃げるのは卑怯です!」
細く開いた引き戸の隙間に、積み重なった人影が三つ半。半分は見慣れた眼鏡の反射だった。夜道を遠ざかる律儀な足音が、ひとつ。役人まで何やってんだ。
リンは頭を乗せたまま、動かない。
「……ん。全員、減点」
「だな。――おい、外の腹ペコども。明日の営業まで、そこで頭冷やしてろ」
夜明けまで、あと少し。表の悲鳴と笑い声は、当分止みそうになかった。




