第64話 発掘者の延長戦
保存していない映像ほど、よく再生される。
白瀬こはくは昨夜から、そのバグと同居していた。
夜の船尾。手すりに向かって立つ、世界最強の背中。誰もいない海に置かれては、拾い直される言葉の欠片。
録ってない。録るわけがない。そもそも電池を抜きに行っただけだ。なのに脳内のアーカイブは、頼んでもいないのにあれを流す。削除ボタンが、どこにも実装されていない。
眠るのは早々に諦めて、船室で編集を開いた。
竜宮の映像を切り出す手が、二分に一回は止まる。サムネ案は没が十二枚。テロップの誤字を三回やって、三回とも「凛」の字だった。心当たりしかない。
――私、なんで凹んでるんだろう。
その資格があるのかどうかすら、分からなかった。それが一番、性質が悪い。
明け方近く、『おっさんの解体キッチン』の一番古いアーカイブを開いた。
再生数二百回時代の、画質の粗い画面。深夜の狭いキッチン。視聴者三人の、変な解体配信。世界で私だけが知ってる――そう思ってた頃のやつだ。
でも本当は、あの秘密基地には早々に四人目が来ていた。コメント欄に、証拠が残ってる。
『それは、どこで食べられますか』
rin。たった一行。あの人はあの頃から、画面越しじゃなくて店に向かってた。
発掘したのは私だ。そこは絶対に譲らない。でも、通い詰めたのはあの人だ。数字で食ってる配信者だから、見えてしまう。この勝負の、累計視聴時間の差が。
配信者として言えば、答えは簡単なはずだった。動かないのは尺の無駄。恋も企画も、初動が九割。……でも、あの背中を思い出すたびに初動の指が止まった。世界最強が、誰もいない海に何度も頭を下げてたのだ。あれに横から被せられる企画なんて、この世にない。
それに――一回目は、もうやらかしてる。凱旋祭のゲリラ企画がそれだ。あの夜の私は、世界一のタイミングで、世界一余計なライトを焚いた。あれは事故だった。でも二回目は、事故って言い張れない。
こはくはノートを開いて、企画書を一枚だけ書いた。タイトルは『延長戦のルール(自分用)』。公開はしない。収益化もしない。視聴者は、一人だけ。……書き終える頃には、指の震えが止まっていた。
夜明け前の厨房には、もう灯りがついていた。
リズが帳面と睨めっこしながら、陸に着いた日の仕込みの割り出しをしている。ガルシアは番号札の束を名残惜しそうに数え直していた。列の主は、いつもどおり寸胴の前だ。
「まかべさん。仮の話、いいですか」
「おう」
「ずーっと狙ってた素材に、先約があったら。……職人って、どうするんですか」
玉杓子は、止まりもしなかった。
「順番は守る。横入りした奴の刃を、素材は嫌うからな」
「……ですよねー」
「ただ、列を降りる理由にもならん。惚れた素材ってのは一点ものだ。並ぶ価値があるから、列ができる」
飯と素材の物差ししか持ってないくせに、この人はたまに人生のど真ん中へ刺してくる。無自覚って、ちょっとずるい。
「朝から重い質問には、大盛りで応じる主義でね」
「いただきます……」
何も伝わってないのは、確認するまでもなかった。リズだけが手を止めて、ぼそりと言った。
「……刃が迷うときは、研ぐ前に柄を見直せ。うちの家訓です」
「職人の家訓、部外者にも刺さるのやめてもらえます!?」
カウンターの隅では、凛が丼を空けていた。食う速さが、いつもの倍だった。何かある朝ほど丼が早く空く人だと、この航海で学んだ。目が合って、逸らされた。あっちはあっちで、昨日の夜を持て余してるらしい。
日の出の船尾に、背中はまた立っていた。
今度は練習じゃない。ただ、陸の方角を見ている。こはくは深呼吸をひとつ入れて、正面から声をかけた。
「天宮さん。……私、見ちゃいました」
手すりが、きし、と鳴いた。振り向いた顔より先に、耳が赤かった。
「昨日の夜の、その、練習のやつです。録ってません! ガチで録ってません! 電池を抜きに行っただけなので!」
「……消して」
「だから録ってないんですってば! 残ってるのは、ここだけです」
自分のこめかみを指す。
「で、ここのは消せません。消し方、誰も実装してないので」
凛は答えずに、海へ向き直った。逃げなかっただけ、この人らしい。
「『私だけが知ってた頃』の話、覚えてます? 100万人記念の夜のやつ」
「……覚えてる」
「あれ、続きがあるんです」
朝の海は、弾幕ゼロの真っ白な画面みたいだった。こはくは、そこに向かって話した。
視聴者三人の秘密基地のこと。早々に現れた、四人目の一行のこと。あの一行を見た夜、ちょっと悔しくて、それでもスクショを保存してたこと。フォルダの名前が、いまも『秘密基地』のままなこと。
「私が発掘したのは、まかべさんの手元です。……でも、先にあの店へ辿り着いてたのは天宮さんでした。数字を見る仕事なので、そういうの、見えちゃうんですよ」
凛は何も言わない。ただ、手すりの上で指が一本ずつ折られて、三本目で止まった。あの夜と同じ癖だった。
「だから――整理、します」
息を吸う。配信開始前と、同じ深さで。
「ノーカウントには、してあげませんって言いましたよね。あれ、今も有効です」
「……ん」
「でも、順番は譲ります。今度は割り込みません。ゲリラ企画も、しません」
言葉を句点で切る。噛んだら台無しだ。
「勝負は――降りません、けど」
言い切った。喉の奥が熱い。実況は、しないでおいた。
凛が、ゆっくりこっちを向いた。
「……受けて、立つ」
「はい! あと、これは発掘者からの業務連絡ですけど――仕上がり、まだ七割です。本番までに、噛まずに言えるようにしといてください」
「……っ」
人類最強が、手すりを掴み直した。S級の首より効いたらしい。
それから凛は少しだけ迷って、小さく付け足した。
「……陸に着いたら。店で、おかわり。……奢る」
「出た、天宮さんの最大級の謝意! 遠慮なくいただきます!」
――延長戦は、続行。ただし今日からは、正々堂々。
心臓の同接は、いつの間にか平常運転に戻っていた。
昼前。汽笛が二回鳴って、船は埠頭に横付けされた。
「帰港の瞬間、世界同時でお届けしてます! 発掘した私が言うのもなんですが――ただいまです、日本!」
《おかえり!》
《待ってた》
《腹は、減らして待ったぞ》
《切り抜き班、帰港位置につきました》
タラップの下は、見慣れた顔の人垣だった。夜勤明けの男も、制帽のタクシー運転手もいる。あの貼り紙に太い字を足した誰かさんたちが、両手を振っていた。
その人垣の向こうに、こはくのカメラは見てはいけないものを映した。
黒いマイクの林が立っている。中継車が壁を作っている。埠頭の半分が、報道陣の山だった。
――店の列より先に、質問の列が開店していた。




