第63話 帰りの船
竜宮が水平線に沈みきるまで、甲板から中に入る奴は一人もいなかった。
いい漁場ってのは、離れるときの背中で分かる。国も言葉もばらばらの背中が、名残の角度だけ揃ってた。
帰りの船は、行きより重い。
船倉は上物で満杯。中継卓の周りは、紙の山だ。
「取材申請、五百件を超えました! お断りの定型文、指がガチで覚えました!」
「窓口は暖簾だって言っといてくれ」
「その暖簾、国際電話に出てくれないんですよ!?」
こはくの悲鳴も、三日もすれば船の音の一部だ。質問の列は、陸で待たせておけばいい。うちは、並ばない客の相手はしない主義でね。
代わりに、いい列の映像が届いた。
陸の店の前だ。『臨時休業。行き先、南の海。帰りは必ず』の貼り紙の周りに、常連どもの書き込みがびっしり増えてる。いちばんでかい字は、読むまでもなかった。――腹減らして待ってる。
「達筆だな。誰の字だ」
「さあ!? でも五回くらい上から書き直した跡があります!」
手すきの時間は、包丁を研いだ。陸に着いたら、まず店の再開だ。世界が何と騒ごうが、うちの商売は深夜の丼一杯でね。仕込み表は、頭の中でもう三枚できてる。
《帰るまでが遠征です》
《竜宮ロスが始まった》
《来週から深夜に何を見ればいいんだ》
《↑店の配信があるだろ》
弾幕だけは、行きも帰りも変わらなかった。
最後の夜は、宴になった。
別れの宴ってのは湿っぽくなる相場だが、あいにくうちの客はよく食う連中ばかりだ。湿ってる暇に、丼が空く。
口開けは氷雪の姉さんだった。海の上の一杯目もあの人だったから、締めまで同じなら客筋がいい。今夜は勘定を取らないつもりだったのに、丼の下に硬貨を押し込まれた。餞別の押し付け合いってのは、世界共通で不毛だ。
「店は、陸のどこにある」
「深夜のうちだけ、灯りのついてる場所に」
「……分かった。今度は、客として並びに行く」
丼を返す手つきで分かる。ああいう手合いは、約束を目方で量る人種だ。番号札は要らない。ちゃんと最後尾から並ぶ客だよ。
海峡の大男は、帰り際に味噌を一樽発注していった。砂漠の序列二位は「弟子は取らんのか」と聞いてきた。断っておいた。うちの弟子枠は、ついさっき埋まったばかりだ。
その話は、後でする。
北の親方は何も言わずに、砥石を一つ置いていった。無言の国交ってのもある。
司厨長は、宴の途中で紙を一枚寄越した。この船の賄いのレシピだ。返礼に、うちのタレの継ぎ足しの割を一行だけ書いて渡した。国交ってのは、ああいう紙切れ一枚で更新されるらしい。
で、弟子枠の話だ。
宴の裏で、リズが前掛けのまま頭を下げてきた。帳面を胸に抱えて、背筋が定規みたいに伸びてる。
「ししょう。わたしを、正式に弟子にしてください。……日本に、残ります。賄いの分は、働いて返しますから」
「もう店に住み着いてる奴が、いまさら何の手続きだ」
「けじめです。一族の帳面に、書く行が要ります」
「……なら、こう書いとけ」
俺は洗い場の桶を、顎で指した。
「本日付、皿洗い改め弟子。初仕事は、陸に着いた日の仕込みから」
娘は帳面に一行書いた。それから頼んでもいないのに、桶の前に立って今夜の分を磨き始めた。九代目ってのは、けじめの付け方まで古風らしい。
ガルシアは、自作の番号札の束を几帳面に揃えて差し出してきた。
「コレ、アズケル。ステル、ダメ」
「捨てやしないさ。次はいつ使う」
「ワタシ、常連。ダカラ――マタ、クル。コンドハ、ヒコウキ、デ」
「翻訳機、だいぶ暇になってきたな」
「オカワリ、カラ、オボエタ」
言葉ってのは、腹から覚えるのが一番早いのかもしれん。
鳴海は宴の隅で、借り物の包丁を布に巻いていた。
「地方へ、戻ります。……研ぎの、途中ですので」
「おう。研ぎ上がったら報告に来い」
「――は。今度は、列に並んで申し上げます」
葛城さんは端末を三つ抱えたまま、円卓の真ん中で寝落ちしてた。役人の寝顔ってのは勤続年数が出る。毛布は、北の親方が黙って掛けていった。
《船の上の卒業式かよ》
《全員留年しろ》
《泣くなよ、まだ航海中だぞ》
「陸でも毎晩やります! まかべ食堂は年中無休、時差も無休です!」
こはくの宣言で、宴は万国共通の手締めで引けた。手締めの作法まで揃うようになったのは、多分うちの客が特殊なだけだ。
最後に残ったのは、リンだった。
丼は大盛り一杯だけ。今夜は、おかわりの声がかからなかった。丼の底を見てる時間が、十杯目のあの夜より長い。
「船酔いか」
「……違う」
「なら結構」
「…………陸に着いたら、店は」
「翌々日には開ける。仕込みがあるからな」
「……そう。……分かった」
何がどう分かったのかは知らないが、リンは丼を返すと、まっすぐ甲板のほうへ歩いていった。指を二本折って、三本目で迷ってたのは見なかったことにする。護衛ってのは、船の上でも見回りが要るらしい。仕事熱心なこった。
*
その夜の船尾に用があったのは、こはくだけだった。
回し損ねたカメラの電池を抜く。用事はそれだけだった。風の隙間に、声を拾うまでは。
「……あなたの、ことが」
柱の陰から見えたのは、手すりに向かって立つ人類最強の背中だった。
誰もいない海に、言葉を置く。拾う。並べ直す。
「……飯も、手も……ちがう。順番が、ちがう……」
世界で一番強い人が、夜の海を相手に、頭を下げる練習をしていた。
こはくは足音を殺して、柱と一体になった。カメラは向けない。向けられるわけがない。
発掘系配信者の勘が、全力で警報を鳴らしていた。これは世界でいちばん、拡散してはいけない映像だ。――そして多分、私がいちばん、見てはいけなかったやつだ。
回線は切ってある。なのに、心臓の同接だけが跳ね上がっていた。




