第61話 竜宮、豊漁
鳴いた核は、それきり静かになった。
威嚇でも断末魔でもない。診立てどおり、あれは腹の底から出る音だったらしい。壊死の根を切り離された核は、朝までに脈を整えた。いまは谷の底で、規則正しく打ってる。健康な患者の音だ。
そして健康な竜宮ってのは、とんでもない漁場だった。
豊漁って言葉は、魚屋の親父から聞いたことしかなかった。競りの声がでかい朝は、店の飯まで美味くなる。そういうもんだと教わった。
いま、目の前でそれが起きてる。
母船の甲板は、夜明けから競り場の騒ぎだった。九層から上がってくる升が、どれも満杯で戻ってくる。崩れない。砂にならない。触った端から鳴りのいい上物ばかりだ。
「西面、全升の回収を完了しました。……崩れ、ゼロです」
鳴海の声が、報告の形をした欠伸みたいに掠れてた。徹夜明けの慇懃ってのは、妙に人間味がある。
「お前も寝ろ。升は逃げない」
「――は。ですが素材が、その」
「逃げないさ。竜宮はもう、崩れる理由をなくした」
言ってから、我ながらいい響きだと思った。二十年やってて、素材を「待たせられる」現場は初めてだ。
上がりたての一枚に、手袋を外して触ってみた。
脂の乗った霜が、指の腹で素直に鳴く。昨日までの偽装表示ぶりが嘘みたいだ。腐りの根が抜けた素材ってのは、こうも機嫌がいいのか。
「……いい素材だ。泣いてない」
葛城さんが、端末を三つ抱えて駆けてきた。役人が走るのは、大抵ろくな知らせじゃない。
「真壁さん、素材市場が――」
「暴落ですか」
「逆です。沸いています。竜宮産の検体が各国の取引所に届いた途端、先物から火がつきました。それと、これを」
端末の一つを、こっちへ向けてくる。画面では見覚えのある形の求人票が、知らない言語で量産されていた。
「解体師の求人です。今朝から、世界中で一斉に。……この規模の雇用の戻りは、前例がありません」
「前例なら、昨日作ったばかりでしょう」
「……ええ。ええ、本当に。胃薬の減りが、初めて止まりました」
役人の目が赤いのは、徹夜のせいだけでもなさそうだった。見なかったことにして、賄いの列を指差しておいた。
昼を待たずに、母船は祭りになった。
うちの車の前には十七言語の行列ができて、ガルシアが盆を三枚重ねで運んでる。翻訳機が湯気で悲鳴を上げてた。
「オカワリ、コチラ。ナラブ、ダイジョウブ」
「板についてきたな」
「ワタシ、常連。テツダイ、トウゼン」
行列には見覚えのある顔が多かった。回線の声の主たちだ。北の親方は無言で大盛りを平らげて、無言で列に並び直した。西面三十一番は、頼んでもいないのに列の整理をやってる。働き者ってのは、休み方が下手だ。
「大将ー! 同接、また数えるのやめました! 豊漁配信、世界中がガチで飯テロ被害です!」
中継卓のこはくが、モニター越しに親指を立ててくる。画面の弾幕は、朝から祝いの言葉と悲鳴が半々だ。
《豊漁ってレベルじゃない》
《肉の神父、今日も伝道中》
《深夜に見るんじゃなかった(十七回目)》
カウンターの端では、リンが丼を空けていた。九杯目だ。査定済みの一杯ってのは、食いっぷりまで堂々としてる。
空いた丼が、音もなくこっちへ滑ってきた。
「……おかわり。十杯目」
「査定は九杯で締めたはずだがな。……ま、今日は祭りだ。帳簿は見なかったことにする」
丼を受け取る手つきは普段どおりで、耳の先だけが少し赤かった。湯気のせいってことにしておく。
十杯目は、いつもより時間をかけて空いた。丼の底を、リンは少しだけ長く見ていた。
「……帰ったら、また並ぶ」
「毎晩開けてる店に、律儀なこった」
リズは行列の脇で、帳面を広げていた。九代ぶんの、あの帳面だ。
「ししょう。……書き足しても、いいでしょうか」
「あんたの帳面だ。俺に聞くことじゃない」
「一族の帳面です。ですが今日の頁は、皆の頁ですから」
娘は筆を構えて、しばらく迷ってから短く書いた。
――谷の根、二千の目で切除。竜宮、豊漁。
数百年前の書き込みの下で、その一行は妙に馴染んで見えた。申し送りってのは、こうやって続いてくもんなんだろう。
祭りの輪から、一人だけ外れてる男がいた。
ミルズさんは記録端末の前に座ったきり、朝から動いてない。画面には昨夜の全工程が流れてる。二千の刃と、機械の腕と、俺の三枚。何度も巻き戻しては止めて、見てる。
喪服みたいな背中だった。祭りの音は、あの席までは届いてないらしい。
賄いの盆を、隣に置いた。
「冷めますよ」
「……ミスター真壁。ひとつ、確認したい」
「どうぞ」
「昨夜のあれは、再現できるか。同じ手順で、もう一度」
「無理でしょうな。同じ素材は二度と来ない。うちの日替わりと同じです」
「……再現不能。データの外。それが答えか」
男は立ち上がって、盆の上の丼をしばらく見下ろした。それから、一気に食った。断定形の食い方だった。
「馳走になった。……先に戻る。やることができた」
「回収便は夕方ですよ」
「自前のヘリを呼んだ。時間が惜しい」
止める理由もないんで、見送った。タラップを降りていく背中は、来たときより荷物が軽く見えた。気のせいかもしれないが。
夕方、祭りは二巡目に入った。
寸胴の底が三度目に見えた頃だ。こはくが中継卓から、転げるように駆けてきた。
「大将! や、やばいです! 速報です!」
「同接が数えられたか」
「違います! オムニ社です! ミルズさん、着陸した足でそのまま――緊急記者会見、開くって!」
玉杓子が、鍋の縁で止まった。
モニターの中では、もうマイクの林が組み上がりつつあった。断定形の男は、世界に向かって何を断定する気だ。
丼の湯気の向こうで、祭りの音が一瞬だけ遠くなった。




