第60話 継がれる技
黙られたら、もう一度聞く。客商売の基本だ。
角度を変えた。灯りを足した。刃の背で面を叩いて、返りの音まで聞いた。手袋を外して、指でも読んだ。指はまだ読める。目だけが追いつかない。
駄目だった。
三枚目の奥。霜の根の芯が生きてる脈に絡む、いちばん深いところ。手前までは読める。その先だけが、墨を流したみたいに黙ってる。
視えないまま入れるか。半秒だけ考えて、捨てた。うちは目分量の店じゃない。患者は替えが利かないんでね。
「リン。少し時間を食う」
「……ん。いくらでも」
いくらでも、はないんだがな。壊死の脈は、こうしてる間も一拍ずつ図太くなってる。
有線の受話器を取った。見栄を張る歳でもない。看板に偽りを出すよりは、よほど安い買い物だ。
「リズ、聞こえるか。三枚目の奥が視えない。……俺の目じゃ、届かない」
線の向こうが、静まり返った。
指揮所の空気が固まる音まで、聞こえた気がした。
『……ししょう。ひとつ、お願いがあります』
戻ってきた声は細いのに、芯だけが太かった。
『あの根は、一本ものです。九層の上から皆の升を通って、そこへ潜っています。皆、自分の切り口なら見ています。――全員の目を、繋がせてください』
受話器の向こうで、紙をめくる音がする。九代ぶんの帳面だ。
『石板の言葉を、覚えていますか。「これ以上は、ひとりの刃では届かない」……あれは敗北の記録ではなく、次に来る者への申し送りだと、わたしは思うのです』
息をひとつ吐いた。倉庫番の意地なんて、丼一杯の値段にもならない。
「――回線を開いてくれ」
全体回線が開いた。世界中の持ち場に、俺の泣き言が流れたことになる。恥ってのは、鮮度のいいうちに晒すに限る。
「聞いてのとおりだ。深部の断面が視えない。あんたらの升で、根の目がどう走ってたか。切り口の読みを、番号と一緒にくれ」
半呼吸あった。
最初に返ったのは、慇懃な声だった。
「西面三十一番、鳴海です。当該の根、目は時計回りに三度。……升の余白に、書き留めてあります」
「北面一番。目は素直だ。芯は暖流側へ逃げとる」
「東面四列目、左巻きに変わる! 深さは腰の高さ!」
「南面九十六番! 目は戻る、右へ半巻き!」
堰が切れた。
通訳が追いつかない。数字だけが正確に飛んでくる。俺の知らない訛りが、俺の知ってる言葉を喋ってる。切り口ってのは、口より正直だ。
断定形の声が割り込んだ。
「機械の記録も照合した。搬送腕が受けた根の硬さ、全件を座標順に並べてある。……見る目はないが、覚える力なら負けん」
「上等です。それも頼みます」
足の下から、カタコトが響く。
「シンゾウ、イマ、ユックリ。ワタシ、カゾエル」
「よく数えた。そのまま頼む」
『中層まで、揃いました。九層から下は、帳面の先人の読みを足します。「谷の根は、必ず脈の裏へ回る」――数百年前の書き込みです』
「信じよう。書いた奴は、ここまで来た奴だ」
目を閉じた。
頭の中へ流し込む。二千の切り口を。目の走りを。硬さの並びを。脈の間隔を。
一本の根が、暗がりの中で立ち上がっていく。
九層の上では素直に走る。中層で左へ巻く。暖流側へ芯を逃がして――最深部で、こう絡む。
視えた。
いや、違うな。視たのは俺じゃない。二千の目が視たものを、俺は帳面に起こしただけだ。倉庫番の古い癖でね。人の仕事を書き留めるのだけは、昔から早い。
「全員、ご苦労さん。……注文、通った」
目を開ける。墨の奥に、道が一本通っていた。
息を整えた。冷気が肺の形を教えてくる。
「リン。始める。今度こそ、世界一の隙だらけだ」
「……ん。誰も通さない」
一枚目。
根の肩口へ、刃を入れた。時計回りに三度。鳴海の目だ。
二枚目。
裏へ返して、左巻きの捻れを外す。東面の目と、親方の逃げ筋だ。
『ししょう、返しは浅めに。西面の升では、そこで刃が半度食われました』
「――助かる」
確かに、半度食われかけた。娘の声が、俺の手首を掬った。
汗が顎を伝う。拭かない。手が惜しい。
線の向こうで、世界が黙って待ってる。誰も急かさない。黙って待つのがどれだけの芸か、客商売なら知ってる。
闇の端で何かが動いて、風が短く鳴った。顔は上げない。約束でね。
三枚目。
墨の奥へ。二千の目が通してくれた道に、刃を沈める。
境目は薄皮一枚だった。先人の言うとおりだ。ひとりの刃では届かない。だが――届かせる道は、ちゃんと残してくれてた。
芯が、切れた。
壊死の根が谷から離れる。死んだ核が、ゆっくりと浮いた。砂にならない。丸ごとだ。
固定枠が受ける。ガルシアの腕とミルズの機械が、静かに持ち上げていく。
『切除――完了、です』
リズの声が上ずって、それから回線が割れた。
十七言語の歓声だった。受話器を耳から離しても、まだ聞こえた。回線の奥で、誰かが洟をすすった。慇懃な声の主だった気もするが、査定はしないでおく。
「大将ー! 地上、お祭りです! 同接、ガチで数えるのやめました!」
「各国指揮所より報告。負傷者ゼロ。……人類史に、前例のない夜です」
「全工程、記録した。……これは、消させない」
「――各持ち場、賄いを回してくれ。今夜は大盛りだ。査定はなしでいい」
回線がもう一度割れた。現金なもんだ。
隣で、リンが小さく手を挙げた。
「……九杯目」
「働きは見てた。文句なしの満点だ」
技ってのは、研いだ包丁と経験だ。二十年そう言ってきたし、いまも嘘だとは思ってない。
ただ、今夜ひとつだけ書き足すことにした。
包丁は一本でいい。目は、何千あってもいい。
誰かの読みが誰かの刃を届かせるなら、技は死なない。倉庫の十年も、潰れた工房の帳面も、途中で折れた先人の刃もだ。
――その時だった。
足の裏から、音が来た。
鐘の底を撫でたような、低くて長い一声。谷の壁が震えて、水筒の汁の面に細かい輪が立つ。
リンが剣に手をかけて、途中で止めた。
「……いまの」
「ああ」
威嚇の音じゃない。あれは腹の底から出る音だ。うちの客が丼を空けたときに出す、あれと同じ種類の。
切り離されたばかりの生きてる核が――確かに、鳴いた。




