第59話 二人だけの最深部
出前ってのは、店主が店を空けるための唯一の口実だ。
うちは出前をやらない主義でね。丼が一番いい温度で出るのは、カウンターの内側だからだ。だが今夜の客は、九層の下から動けないらしい。なら、丼のほうから行くしかない。
指揮卓は、三枚におろして預けることにした。
「谷読みはリズ。迷ったら、迷ったほうを止めろ」
「……はい。帳面のとおりに、読みます」
「升の回しは鳴海。番手の上げ下げは、お前の目測でいい」
「――は。お戻りの升は、空けておきます」
「機械はミルズさんに。降り口の確保を頼みます」
「梯子と照明は保証する。……戻りの分も、だ」
断定形ってのは、こういう夜には有り難い。保証すると言った男は、保証する。
葛城さんが、細い巻き線の端を差し出してきた。
「深部は電波が濁ります。有線を一本、繋いだままに。……この深度に人が降りた前例は、ありません」
「前例なら、今夜作りますよ」
こはくは中継卓の前で立ち上がりかけて、座り直した。
「大将。カメラは……」
「連れてかない。手元が翳る」
「……ですよね。じゃあ、私は上を繋いでます。世界中の同接ごと。……ガチで、戻ってきてくださいね」
「ああ。店主が閉店の挨拶をサボった前例はない」
中継のモニターが、視界の端で流れた。世界中の弾幕が速度を落として、同じ形の言葉に揃っていく。
《いってらっしゃい》
《いってらっしゃい》
《いってらっしゃい、大将》
言葉ってのは、揃うと重くなる。前掛けの紐一本ぶんくらいは、確かに重くなった。
降り口で、リンが先に立っていた。
装備は軽い。剣が一本と、灯りがふたつ。人類最強の遠征支度ってのは、拍子抜けするほど台所に近い。
「分担」
「ああ。俺は手元しか見ない」
「……周りは全部、私が見る」
言い終わる前に、リンは縦穴の闇へ半身を入れていた。仕込みのいい返事ってのは、それだけで味の保証になる。
降りた。
九層の下は、音の質が違った。
二千の刃の気配が、天井の向こうで遠くなる。代わりに、生きてる核の脈が壁ごと響いてくる。でかい寸胴の底へ、匙一本で降りていくような按配だ。
深さが増すごとに、脈の音は近くなった。煮えの浅い出汁が、鍋の底で低く鳴るのに似てる。生きてる音だ。生きてるうちに、間に合わせる。
壁は氷温より冷えていた。霜の根が走った面は、灯りを当てると霜降りの肉みたいに濁って光る。見てくれは上等で、中身は腐りだ。性質の悪い偽装表示ってやつだな。
足場は、凍った腱の段々だった。降りながら、壁の目を読む。
「リン。次の段、右半分は乗るな。腱の目が逆立ってる」
「……ん」
「その次は蹴っていい。三枚重ねだ」
「……歩き方、覚えてる」
「胃袋のときのか。あの頃より読みは上達してるさ。素材のほうがな」
解体ってのは、要するに順番の学問だ。どこが保って、どこが剥がれるか。捌く順の逆をたどれば、崩れない道になる。倉庫の十年が海の底で道案内をやるとは、人生も妙な献立を組む。
三段目で、腱がひとつ鳴った。
闇の端で、何かが動いた。
俺は歩を緩めなかった。緩める理由がない。
風がひとつ鳴って、動いたものは動かなくなった。リンは剣を納めながら、もう次の闇を見ていた。
「……見なくていいの」
「手元以外は見ない約束でね」
護衛の横顔が、少しだけ緩んだ気がした。灯りの加減かもしれないが。
それから二度、風が鳴った。二度とも、俺は足元の灯りしか見なかった。世界で一番贅沢な安心ってのは、たぶんこういう形をしてる。
耳の奥で、有線の声が細くなっていく。
『ししょう、聞こえますか。谷は、図面どおりに回っています』
リズの声が、三割ほど痩せて届いた。
「聞こえてる。そっちの升を守れ。こっちは道草だ」
『……道草の距離では、ありません』
娘も言うようになったもんだ。
中程の下りで、腱の段が俺の踵の下で鳴った。
浮いた。と思ったときには、襟首が止まっていた。
リンの左手だ。剣を持ったまま、俺の襟を摘まんでる。猫の子の運び方だった。
「……手元しか、見ないんでしょ」
「面目ない。足元は手元に入らない説を唱えたい」
「……却下」
人類最強に襟を摘ままれて運ばれる解体師ってのは、おそらく世界初だ。この前例は、葛城さんに報告しないでおく。
中程の棚で、一度だけ足を止めた。
水筒の汁を、蓋に注いで渡す。寸胴の残りの、いちばん濃いところだ。
リンは両手で受け取って、湯気に顔を寄せた。
「……あったかい」
「保温ってのは技術だ。感心していいぞ」
蓋一杯の汁を、人類最強はずいぶん長く飲んでいた。
棚の下では、濁った霜が脈に合わせて明滅していた。急かされてるのか、待たれてるのか。どっちにしろ、診察の順番は変わらない。
リンが、こっちを見ないまま言った。
「……怖くないの」
「あんたがいるからな」
考える間もなく出た。我ながら、いい出汁の返事だった。噓も飾りも入ってない。
リンは蓋を返して、立ち上がった。
「……ん。任せて」
声はいつもの短さで、剣を握り直す手だけが、いつもより丁寧だった。
「……戻ったら、八杯」
「査定済みだ。九杯目は働き次第だがな」
最後の段を降りると、天井が急に高くなった。谷の底ってのは、どこの現場でも妙に静かだ。音が全部、上へ逃げていく。
癒着の谷の底だった。
診断の日にこの手で触った面が、あの日より深く濁ってる。霜の根は谷を抜けて、生きてる核の側へ、指の形で潜り込んでいた。
手袋を外して、触った。
冷たさの奥に、脈がある。濁った脈と、まだ濁ってない脈。境目は薄皮一枚だ。
「リン。ここから先、俺は世界で一番隙だらけになる」
「……知ってる。八時間の男」
「今夜は八時間もかけられない。……始める」
背中で、気配が半歩ぶん近くなった。それだけで、十分だった。
息を深く吸って、吐いた。冷気が肺の形を教えてくる。八時間の夜は、世界が見ていた。今夜の観客は一人だ。それで十分過ぎるってんだから、われながら安い店だと思う。
相棒を抜いた。十割で研いだ刃は、灯りを吸って静かだった。
読む。
繊維の走り。脈の谷。霜の根の芯。谷の走りに沿って、頭の中で工程が組み上がっていく。刃を入れる前の読みは料理の味見と同じで、省くと必ず後で払いが来る。だから丁寧にやった。丁寧に、やったんだ。
入りの一枚目はあそこだ。二枚目はその裏。三枚目は――
手が、止まった。
三枚目の奥だ。根の芯が核の脈に絡む、いちばん深いところ。
視えない。
繊維は読める。脈も読める。だがその先の断面だけが、灯りを増やしても角度を変えても、墨を流したみたいに黙ってる。
目を閉じて、開けた。同じだった。
包丁を握って二十年と少し。素材の断面に黙られたのは、今夜が初めてだった。




