第58話 深夜営業、世界同時
開店の挨拶ってのは、客より先に自分の腹を決めるためにある。
だから初日から一度も変えてない。今夜も変えない。相手が世界でも、海の底でもだ。
「さて――今日も開店だ」
指揮卓のマイクが、俺の声を深部へ運んだ。十七言語の通訳が半呼吸遅れて続く。
大空洞の壁面に、二千の作業灯が点いた。
升の数だけ返事が来る。言葉はばらばらで、意味はひとつだった。へい、いらっしゃい。
最初の一枚は、北面からだ。
「北面一番。親方、頼む」
「――承った」
モニターの中で、白髪の親方が氷温の升に刃を入れる。三十年、家の台所で研がれ続けた刃だ。
灰色の一枚が、音もなく浮いて外れた。
崩れない。砂にならない。
搬送腕がそいつを受け取って、通路を滑っていった。
《外れた》
《崩れてないぞ》
《世界最初の一枚、じいちゃんかよ》
《駄目だ、開始三分で目の奥が熱い》
「大将! 同接の桁、ガチでおかしいです! ……億です! 単位が国じゃなくて大陸です!」
こはくの悲鳴は聞き流した。仕事の邪魔になる数字は、見ない主義でね。
《こっちは朝の七時。出勤前に見てる》
《俺は昼休み》
《全人類が同じ手元を見る夜が来るとはな》
ここから先は、順番の勝負だ。
接合面は厨房二千軒ぶん。腐りは脈に乗って染みる。だから全周から同時に、脈の谷だけを選んで刃を入れる。一箇所でも遅れりゃ、そこから染み直す。
俺の仕事は、谷を読んで注文を通すことだ。
「南面九十六番、半呼吸待て。……今だ」
「東面の四列目、番手をひとつ落とせ。そこは皮が若い」
「中層の暖流側、いい速度だ。維持で頼む」
注文を出すたび、どこかの国の刃が入る。浮いた一枚を機械が運ぶ。照明が次の谷を照らす。
八時間、俺一人の手元を世界が見てた夜がある。
今夜は逆だ。二千の手元を、俺が見てる。どっちが贅沢かは、考えるまでもなかった。
「渋滞は」
「ない。搬送効率、想定の一割五分増しだ。……冷えの順とやらは、正しかったらしい」
ミルズの声は断定形のままで、語尾だけがわずかに丸い。工程表の写しは、畳まず指揮卓の隣に広げてあるそうだ。読むのは私だと言った男は、今夜は読む側の顔をしてるんだろう。
鳴海の升は、西面の中段だった。
「西面三十一番、二枚目まで完了。……升の余白に、三枚目の目測を書き足しました。ご確認を」
「見えてる。いい目測だ。そのまま行け」
「――は」
慇懃な声の後ろで、借り物の刃が鳴った。借りたときより良い刃で返す気らしい。結構なことだ。
リズは診断席で、俺の隣にいた。
「ししょう。北面の七列目、脈が半拍早まっています」
「読めてるな。――北面七列目、手を止めろ。脈が戻るまで休憩だ。賄いは温めとく」
視る側に回した娘の目は、初陣とは思えない働きをしてる。帳面の九人目も、こういう目をしてたんだろう。
交代で下がった升から順に、寸胴の賄いが回っていく。深夜営業の看板に、空きっ腹は載せない主義だ。
ガルシアは核の真下で、固定枠の要石になっていた。
浮かせた膜の重みを、機械と並んで受け止める役だ。倒れないのが仕事の男には、あつらえ向きの升だった。
「フトウ、シゴトチュウ」
「ああ。頼りにしてる」
リンは、指揮卓の三歩後ろにいた。
視線は俺じゃなく、空洞の全部に配ってある。護衛の職分ってのは、順調な夜ほど暇に見える。見えるだけだが。
「……順調?」
「いまのところはな。査定するには早いが」
地上の時計で深夜三時を回った頃、切除は四割を越えた。
葛城さんの声が、全体回線に乗る。
「各国指揮所より報告。負傷者ゼロ、離脱ゼロ。……この規模の国際作戦で、前例がありません」
「そりゃそうでしょう。うちの店に、けが人の前例はない」
順調。実に順調だ。
だが厨房ってのは、順調な夜ほど鍋の裏を見ろと相場が決まってる。
六割を越えた頃、鍋の裏が来た。
「ししょう」
リズの声が、半音低くなった。
「九層目の下です。霜の根が……図面より、深い」
モニターを引き寄せる。接合面の最深部。診断の日、俺がこの手で触った場所だ。
霜の根が、癒着の谷を抜けて奥へ潜ってる。触診じゃ届かなかった深さだ。生きてる核の脈が、そこだけ濁ってる。
「観測班。九層目の下、断面は出せるか」
『出せません。どの角度からも、影になります』
頭の中で工程表をめくった。二千の升。百基の機械。どの刃も、どの腕も、あの深さには届かない。
図面の外の一枚。様式に収まらない注文ってわけだ。
弾幕の速度が落ちていくのが、画面の端で分かった。時差の向こうの全員が、同じ影を見てる。
「ししょう、あの深さは、誰の升にも――」
「ああ。書いてない」
書いてないなら、書き足すだけだ。工程表ってのは、生きてる紙なんでね。
背中で、気配がひとつ動いた。リンだ。何も言わない。もう分かってる顔が、見なくても分かる。
前掛けの紐を、二重に結び直した。
十割で研いだ相棒を、腰の袋ごと確かめる。替えの利かない患者が一人と、しくじりの許されない執刀が一回。段取りどおりだよ、結局。
通信機を、指揮卓に置いて立ち上がる。
「……ここから先は、俺の仕事だ」




