第57話 世界の仕込みの夜
研ぎの音ってのは、二種類ある。
明日も同じ仕事を続けるための音と、そうじゃない音だ。
一度だけ、店の研ぎ場で後のほうの音を出した夜がある。あの夜、あの音は俺一人ぶんだった。
今夜は、数えるのをやめた。
決行は今夜の零時。作戦名どおりの開店時間だ。機械の組み直しも各国の承認も、昨日までに済んでる。風呂と仮眠は交代で回した。段取り八分の八分が終わって、残ったのはそれぞれの刃の時間だけだ。
日暮れから、母船は砥石の島になった。
甲板のそこかしこに水桶が出て、二千人が思い思いの流儀で刃と向き合ってる。北の親方衆は海水で石を締めるらしい。南の一群は歌いながら研ぐ。歌の節と刃筋の速さが揃ってるのが、見てて飽きない。
東の島の婆さんは、桶の縁に孫の写真を立てて研いでた。何を研ぎに来たのか、一目で分かる置き方だった。
言葉の要らない夜だった。研ぎの手つきってのは、どこの国でも履歴書より正直だ。
北の水桶の脇を抜けると、白髪の親方に呼び止められた。
「大将。研ぎ上がりを、見てくれんか」
差し出された刃を、作業灯にかざす。何年ぶりかの出勤前とは思えない、まっすぐな刃文だった。
「いい刃だ。氷の目に合ってる」
「三十年、家の台所で研ぎだけ続けた。……捨てなくてよかった」
親方は刃を袋に納めて、帽子のつばを下げた。それ以上の言葉は、どこの国でも野暮ってもんだ。
通路の端では、リズが一族の包丁と向き合っていた。
石は三丁。布は白。姿勢は教科書どおりで、目つきだけが教科書の外にいた。
「ししょう。十割の研ぎの、お許しを」
「やらん」
娘の眉が、袋の口みたいに縮んだ。
「なんで、ですか。決戦の刃は十割と、帳面に書きました」
「十割ってのは、一仕事で刃を終わらせる研ぎだ。俺の相棒はそれでいい。だが、そいつは駄目だ」
その包丁は、明日で終わる刃じゃない。海を渡ってきて、まだ帰り道が残ってる刃だ。
「八割半で研げ。明日を全部切って、明後日も生きてる研ぎだ」
「……明後日も、生きてる研ぎ」
「一族の刃だろう。終わらせる研ぎは、預かってる奴の仕事じゃない」
リズは包丁を長いこと見下ろして、石の番手をひとつ戻した。
しゃり、と音が変わった。悪くない音だった。
風下の隅に、鳴海がいた。
借り物の包丁を、音を立てない研ぎ方で研いでる。地方の解体場の親方に、頭を下げて借りてきた一本だそうだ。
「持ち場の確認は」
「終わっています。三度」
「なら寝ろと言いたいが」
「……借り物ですので。返すときは、借りたときより良い刃にして返します」
慇懃な口調は昔のままで、研ぎの姿勢だけが新品だった。
「真壁さん。ひとつだけ、伺っても」
「なんだ」
「私の升は、端のほうで構いませんので――」
「升は癖で決めた。お前のは端じゃない」
石の上で、指が一瞬だけ迷った。
「……持ち場に、つきます」
それだけの話だった。それだけで足りる男に、いつの間にかなってたらしい。
甲板の中央では、ガルシアが拳を磨いていた。
砥石じゃなく、岩肌用のでかい布でだ。理屈は分からんが、顔は完全に職人のそれだった。
「コブシ、シアゲル」
「拳も刃のうちか」
「ワタシ、フトウ。タオレナイ、ガ、シゴト」
倒れない看板ってのは、それだけで店の柱だ。頼りにしてる。
白い機械の列の前には、ミルズが立っていた。
技師陣は引き上げたあとだ。男は一人で、固定枠を布で拭いて回ってる。時価総額の顔じゃなく、夜番の顔だった。
「点検ですか」
「拭いているだけだ。……道具とは、そうするものだろう」
「ええ。そうするもんです」
それ以上は言わなかった。三十年ぶんの寄り道の話は、布の動きが全部してた。
作戦室では、葛城さんが承認書類の最終確認をしていた。胃薬は、机の端に置かれたままだった。
「飲まないんですか」
「前例のない夜ですが、不思議と。……念のため、持ってはいますが」
「いい傾向だ。顔色で出汁を濁らせない主義なんでね」
中継卓では、こはくが十七言語のミラーを一列に並べ終えていた。
「大将! 全チャンネル、試験点灯まで完了です! あとは零時を待つだけ。……ガチで、世界中が起きて待ってます」
「悪いな。寝かせてやりたいが、うちは深夜営業なんでね」
厨房に戻って、寸胴六つの火加減を見た。決行の夜は通しで二千人ぶん。仕込みはもう、湯気の匂いに変わってる。
それから俺は、研ぎ場に座った。
十年物の相棒を並べる。今夜も、十割で研ぐ。替えの利かない患者が一人と、しくじりの許されない執刀が一回。あの夜と同じ理屈だ。
しゃり、と石が鳴った。
隣に、気配がひとつ増えた。
リンだった。剣と手入れの布を抱えて、断りもなく隣に座る。常連ってのは、そういうもんだ。
刃の音と、剣の音。二つの手入れの音が、しばらく並んで鳴った。
「……同じ音」
「前にも聞いたな、それ」
「……ん。今日は、二つ」
あの夜は、俺一人ぶんの音だった。今夜は隣に一つと、甲板に二千。数え方がずいぶん贅沢になったもんだ。
「リン。明日も分担でいく。俺は手元しか見ない」
「……周りは全部、私が見る」
布を持つ手が止まって、人類最強はまっすぐこっちを見た。
「あなたは、無事に捌く。私は、無事に帰す。――それが終わったら」
「終わったら?」
「……なんでもない。前倒しは、なし」
自分で言って、自分で首を振ってた。丼の中身は聞かない主義なんでな、うちは。
「……賄い、楽しみにしてる。八杯」
「働き次第だ。査定は通ってるがな」
甲板の縁で、誰かが低く口笛を吹いた。軍歌の類じゃない。開店前の鼻歌ってやつだ。
零時前。研ぎの音が、ひとつずつ止んでいった。
二千人が持ち場に立つ。百基の機械が灯りを点す。寸胴の湯気が上がる。
俺は指揮卓の前で、前掛けの紐を締め直した。
開店の挨拶は決めてある。初日から一度も変えてない、あれだ。
深夜零時。
世界中のチャンネルで、いっせいに配信の赤いランプが点いた。




