第51話 万国共通の腹の音
腹の音ってのは、通訳が要らない。
言葉も旗も通貨も国ごとに違うくせに、腹だけは世界中どこでも同じ鳴り方をする。うちの店が万国で通用する理由は、たぶんそれひとつだ。
リズの一枚から二日。深部の観測班が最後の計測に潜っていて、船の上の連中は待つ側に回っていた。待つってのは、案外体力を食う仕事だ。剣を磨く音と、体を持て余す足音が、廊下に増えている。
だから今夜は夜食会にした。寸胴は三つ。名目は「世界で二人目の祝い」。本音は、深くまで潜った連中の帰りを起きて待つための口実だ。
献立は魔猪の生姜焼き丼と、魔獣骨の汁物。例の鎧海老は出さない。身の痩せた素材を客に出す店じゃないんでね。あれは丸ごと観測班行きだ。
当のリズは、祝われる側のくせに洗い場で丼を磨いている。
「ししょう。祝われる側が働くのは、変ですか」
「うちの祝いは昔からこの形式だ。手が空くと、落ち着かないんだろ」
「……はい。刃と同じで、性分は研ぎ直せません」
言うようになった。
弾幕は今夜も時差の向こうから来ている。半分は宴の実況で、もう半分は、二日前から続く同業さんの列だ。
《嬢ちゃんの一枚、孫に見せた》
《北の港より。うちの親方も泣いてた》
《なあ大将。俺の刃の話、まだ有効か》
有効も何も、こっちはまだ何も言っちゃいない。返事の代わりに、今夜も鍋の湯気を映しておく。
《世界で二人目、もう一回》の合唱に、リズが布巾を持ったまま小さく頭を下げた。見せもんにする気はないが、稽古は明日からも毎晩だ。見たけりゃ深夜に来ればいい。
――で、事件は三杯目あたりで起きた。
カウンターの端と端。リンとガルシアの丼が、同時に空いた。
リンが岩男の丼を見る。ガルシアがリンの丼を見る。
「……おかわり。大盛りで」
「オカワリ。オオモリ、ノ、オオモリ」
おい。
四杯目も同時に空いた。五杯目からは、どっちも喋らなくなった。箸の音と、丼の底が鳴る音だけが行き交う。世界一位と序列一位の間で、飯が外交問題に化けていく。
《始まった》
《無言なのに圧が伝わる》
《うちの国の代表どっち?》
《どっちでもない定期》
「大将! これ、ガチの国際中継になってます! 時差の裏側が全員起きました!」
三脚を担いだこはくが、列の外に実況席を勝手に設営していた。
「実況するな。飯だぞ」
「飯で同接が跳ねるのはまかべ食堂だけです! ……はい、両者六杯目、入りましたー!」
その六杯目の途中で、ガルシアが盆を持って立ち上がりかけた。給仕の癖だ。氷雪の姉さんに肩を押さえられて、席へ戻される。選手兼給仕は反則らしい。
給仕がひとり対決に回って、穴が空いた。その穴を、鳴海が黙って埋めている。盆を三枚重ねで運ぶ手つきが、番号札の岩男の直伝みたいになってきた。
リンの食い方は、何杯いっても崩れない。箸の上げ下ろしが同じ高さで、丼の縁に米粒ひとつ残らない。ガルシアは逆だ。丼ごと消える勢いの、質より量の横綱相撲だった。
宴の隅の円卓では、もっと静かな外交が進んでいた。
葛城さんと、各国の役人連中だ。言葉は半分も通じてないはずなのに、机の上だけ妙に賑わっている。白い包み。銀のシート。見慣れた粒。
「……真壁さん。各国の胃薬は、成分が違うんです」
「そうですか」
「これは北の国のものです。湯で溶くそうで。……前例のない効き方でした」
役人の共通言語は胃薬らしい。腹の音だけじゃなく、胃の痛みも万国共通ってわけだ。世界ってのは、思ったより単純な作りをしている。
葛城さんの顔色は、船に乗ってから一段よくなった気がする。海の空気のせいか、胃痛の同盟ができたせいか。たぶん、後のほうだな。
七杯目。八杯目。
リンの箸は速度が落ちない。ガルシアは丼を持つ手が二回りでかい。弾幕に国旗が並ぶ。どこかの誰かが勝手に賭けを開帳して、別の誰かに通報されていた。
九杯目を注ごうとして、お玉が寸胴の底を擦った。
軽い音だった。
「――そこまでだ。引き分け」
「……まだ、入る」
「マダ、ハイル」
「客の腹より先に、うちの寸胴が降参した。恨むなら鍋を恨め」
二人は顔を見合わせて、同時に箸を置いた。引き際の見切りだけは、最強同士よく揃ってる。
「……次は、鍋を増やして」
「ナベ、フタツ。サンセイ」
「対戦相手より先に鍋の増員を要求されたのは、開店以来初めてだよ」
《引き分けかー!》
《鍋の敗北宣言は草》
《平和な地球、ここにあった》
弾幕が祝勝会と残念会を同時にやっている。悪くない夜だ。
ふと、竜宮の中身を思い出した。火の落ちた厨房。匂いの消えた廊下。あそこでは、腹の音をひとつも聞かなかった。
鳴るってのは、生きてるってことだ。この甲板の騒がしさは、そういう意味じゃ上等な健康診断だよ。
観測班は、まだ帰らない。深いってのは、そういうことだ。丼を二十ばかり洗い上げても、階段に足音はなかった。
空いた寸胴を流しに下げたとき、葛城さんの端末が鳴った。
着信音ひとつで、役人の背筋が変わる。円卓の賑わいが、机の端から順に静かになっていく。
「……葛城です。ええ。――今、なんと」
深部観測班の緊急回線だ。スピーカーに切り替わった声は、若くて、掠れていた。
『計測は完了しました。ただ……報告が、規定の様式に収まりません』
「構いません。そのまま」
甲板の宴が、音を落として耳になる。
『――核が、二つある』




