第50話 リズの一枚
古い道具ってのは、持ち主より長生きする。
だから手入れのいい道具には、前の持ち主の仕事が残る。リズの包丁がいい例だ。そして今夜、カウンターにはもう一つ、古いもんが載っていた。
閉店後の、船の上のまかべ食堂。カウンターの端ではリンとガルシアが締めの丼をつついてる。閉店後まで居座るのは、常連を通り越してもう住人だ。
その真ん中で、油紙の包みが解かれていく。
「ししょう。見てもらいたいものが」
「その口上、二度目だな」
「二度目です。……こちらは、刃物ではありません」
出てきたのは、革表紙の綴りだった。角が丸くなって、背は補修の糸で三色になってる。台帳だ。うちの倉庫の一番古い在庫簿と、同じくたびれ方をしていた。
「工房の日誌です。一番古いもの。競売の朝に、これと包丁だけ持って出ました」
全財産の八割で飛行機に乗った娘の、残り二割の内訳を今さら知った。丼と、これか。
「石板の文字を読んでから、ずっと確かめたいことがありました。……開けても、いいですか」
「俺に聞くな。お前の家のもんだ」
リズは手袋を替えて、頁をめくった。読む前に、例の間を取る。娘のこの間にだけは、どこの親方も文句をつけまい。
「――ありました」
開かれた頁は、褪せた職人文字で埋まっていた。上の余白に、双頭の鷲。石板と同じ紋だ。
「読んでくれ。俺には模様にしか見えん」
「はい。……『海の宮に入りて、三月。持ち込みし技、ことごとく通じず』」
こはくのカメラが、静かに寄った。今夜は居残り稽古の中継日だ。深夜の弾幕が、流れを止めている。
「『宮の材は、生き腐れなり。刃をもって挑むべからず。まず、手を置け。息を、指で聞け』」
リズの声が、そこで一度止まった。読み間違いを避ける間じゃない。飲み込むための間だった。
「『息の切れ目に、一枚だけ、分けてもらえ』」
……手を置け、ね。
俺は自分の右手を見た。素材に手を置くのは、倉庫の十年で覚えた癖だ。誰に習ったわけでもない。冷えの回りと身の締まりを確かめるには、それが一番早かったってだけの話でね。
数百年前の海の底で、同じ癖の連中が働いてた。それだけの話でも、ある。
「署名は」
「八人。……いえ」
リズは頁の端を指でなぞって、顔を上げた。
「九人です。最後の一人は、帰りの船で書き足したそうです。『残る八名、宮に置く。名は、石に刻みし』と」
あの石板の八人と、帳面の九人目。数が、合っちまった。
《おいおいおい》
《この前の石板の人たちだ……》
《帰った一人が記録係か》
《数百年前の出張報告書じゃんこれ》
「ヴァイスの初代は、その九人目の弟子だそうです。技と、この帳面だけを受け継いだと」
「なるほどな。……で?」
「え?」
「読んで終わりなら、ただの家宝だ。台に立つか」
娘の背筋が、音のしそうな勢いで伸びた。
検体区画は、夜中でも灯りが白い。味気ない灯りなんだが、今夜ばかりは舞台の照明に見えなくもない。
台には、観測班が上げた蟹が三匹並んでいた。刃を入れれば砂になる、例のやつだ。
リズは初潜行の翌日から、閉店後に毎晩ここへ通ってる。崩した数は、俺の知る限り十七。本人の帳面には、もっと細かく付いてるはずだ。
「やり方は今までどおりでいい。ただし今夜は、切る前に帳面のとおりにやれ」
「手を、置く」
「そうだ。それで?」
「息を、聞く。……ししょう。息とは、何を聞けば」
「知らん」
《し ら ん》
《師匠!?》
《教えてやれよ!》
知らんもんは知らん。俺だって、手前の手が何を聞いてるかなんて考えたことがない。
「湯加減と同じだ。温度計は要らん。手が『今だ』と言うまで待て。数えるな。数えた時点で、もう聞いてない」
「……はい」
リズは帳面を台の脇に開いて置いた。数百年前の先輩の言いつけなら、素直に聞ける性分らしい。いい性分だ。
一匹目。リズは甲羅に手を置いて、四秒で刃を出した。
砂だった。
「数えたな」
「……数えました」
「祖父さんの教えか」
「はい。『迷ったら三つ数えろ』と」
「いい教えだ。生きてる素材にはな。こいつは生き腐れだ。こっちの都合じゃなく、向こうの都合で待て」
二匹目。今度は長かった。十秒。二十秒。娘の肩から、力の入る場所が下りていく。呼吸が、素材と同じ深さになっていく。
それでも、砂だった。
リズは唇を結んで、砂の山を見た。手袋の指先が、一度だけ震えて止まる。
「……もう一匹、お願いします」
「最後の一匹だ。俺から言うことは、もうない」
三匹目。
リズは手を置いた。目を閉じた。
長い。一分が過ぎる。二分。弾幕すら流れない。空調の音と、遠い波だけが働いてる。
娘の右手が、ふっと軽くなった。
見えた。手のひらの下で、何かの帳尻が合った瞬間だ。
双頭の鷲が、動いた。
音はなかった。
崩れも、しなかった。
刃の上に――薄い一枚が、乗っていた。
灯りに透ける。絹だ。断面の霜まで、ちゃんと拾ってる。
《え》
《切れた》
《切れた!》
《うそだろ、大将以外で世界初!?》
「リズちゃん! やりました、やりました! ガチです、世界で二人目です!」
こはくの声が裏返り切っていた。俺は検体袋を差し出しかけて、やめた。
リズが、動かない。
一枚を乗せた刃を両手で捧げたまま、立っている。眼鏡の下から、雫が顎まで走った。一滴。二滴。落ちる先が刃の上じゃないことだけ、体が職人だった。
娘は一枚を検体袋に納めた。それから刃を台に置いて、頭を下げた。素材にじゃない。包丁にだ。
「……ありがとう、ございました」
声が、途中で折れた。
「曾祖父さま。祖父さま。……刃は、痩せてません。まだ、届きます」
数百年前の九人と、潰れた工房と、痩せた刃。その全部に宛てた礼だった。俺は黙って手元の布巾を畳み直した。ああいう礼の最中に、師匠面で割り込む隙間はない。
リンがいつの間にか隣に来ていて、湯気の立つ丼を台の端に置いた。豚汁だ。餌付けの間合いだけは、人類最強の名に恥じない。
「オメデトウ。イチマイ、キネン」
ガルシアの巨体が、拍手の代わりに折れた。
「大将、あの……それどころじゃないのが、来てます」
こはくが端末を握ったまま、妙な顔をしていた。
「コメント欄が、変です」
「荒れたか」
「逆です。……読みます。『二十年前まで、北の港で剥いでいた者です。その待ち方、うちの親方と同じでした』」
弾幕の速度が、上がっていく。
《俺も元解体師だ。機械が来るまでは》
《うちの工房も三年前に畳んだ。嬢ちゃん、おめでとう》
《その手の置き方、死んだ親父がやってた》
《なあ。俺の刃でも、まだ届くのか》
「時差の向こうから来てるんです。ポルトガル語も、ノルウェー語も韓国語も。……ぜんぶ、同業さんです」
世界中の深夜と早朝で、職を失くした刃が画面を見ている。
――帳面の九人目は、こう考えたんだろうな。石と紙に刻んどけば、技はいつか、誰かの手に届く。
なら今夜のこれは、数百年越しの返事の束ってわけだ。
一枚剥いだだけで、世界が窓の外に並び始めた。……うちの弟子は、初仕事から客足の規模がでかい。




