第49話 完全なコピー
データは嘘をつかない。
ヴィクター・ミルズは52年の人生で、この原則に裏切られたことが一度もなかった。
オムニ・マテリアルズ本社、中央管制センター。壁一面のモニタに、地球の裏側の海が映っている。南の海溝――竜宮。先行させた洋上プラットフォームから、38基分の稼働ログが流れ込んでくる。
世界時計が12個、壁の上で別々の朝を刻んでいる。どの都市の朝も、この部屋の決定を待って始まる。ミルズはそういう部屋を、20年かけて作った。
「手順M、最終確認を」
部下が復唱する。手順M。ミルズ自身が3週間かけて仕上げた、新しい解体プロトコルだ。Mが何の頭文字かを、開発部は公式には定めていない。定めなくても、全員が知っている。
教材は、深夜のキッチンだった。
視聴者3人の初配信から船上営業まで、公開映像はおよそ1900時間。刃入れの角度も送りの速度も、休止の長さも数値化した。まばたきの間隔まで測り切って、白い腕に移植した。
映像だけでは再現に足りない――かつて本人にそう言った。だから足りない分は理詰めで埋めた。刃圧は等級データから逆算した。死角は9台のカメラの合成で潰した。
完成した手順Mは、検証場で雷角牛を特等に剥いた。
7分ではない。34分かけて、だ。速度を捨てて、あの男のリズムを写した。歩留まり99.7。役員会は拍手をした。ミルズはしなかった。当然の結果に、拍手は不要だ。
発表の日の見出しは覚えている。『職人の技、ついに永遠へ』。悪くない見出しだった。あれは盗用ではなく、保存だ。あの男の技は、あの男が眠っている間も世界で働ける。ミルズはそう定義していた。
定義は今夜、竜宮で検証される。
「第1ユニット、試験開始。対象に接触します」
モニタの中で、白い腕が竜宮の甲殻獣に刃を寄せた。
手順Mの初手。膜の外周に、刃の自重だけを預ける。あの男が深夜に何百回もやってみせた、あの入り方だ。
甲殻が、砂になった。
「……計測値」
「刃圧、理論値と一致。角度、一致。速度、一致。――ですが、崩壊しました」
「再試行。第2ユニット」
砂になった。
第3。砂。第4。刃が触れる前に、表層が崩れ始めた。第5から第9、同時投入。全て、砂。
やがてモニタの隅に、赤い文字列が積み上がった。
『対象素材の状態を特定できません』
同じ一文を残して、38基の白い腕が全て止まった。設計者ごと突き放すような、安全停止の姿勢だった。
管制センターの空調の音が、急に大きく聞こえた。
歩留まり、0。試験開始から、19分だった。
「なぜだ。手順は完全に再現した」
誰も答えなかった。
ミルズは端末の縁を、指で叩いた。1度。2度。……3度。あの店では1度で済んだ癖が、今夜は止まらない。
「検証場の直近データを出せ」
「本国では特等です。同じ手順Mで、通常素材なら現在も」
「なら、変数は素材だ。竜宮素材の崩壊条件を再計算しろ」
「それが……個体ごとに違うんです。同じ種の、同じ部位でも。1体ごとに、その……」
若い技師が言葉を探し、探しあてた言葉を飲み込んだ。
「言え」
「……機嫌が違う、としか」
機嫌。
その単語なら、ミルズも知っていた。深夜のカウンターで、丼の湯気ごしに差し出された単語だ。
――包丁はスキャンできても、素材の機嫌はスキャンできませんよ。
「定義を」
あの夜と同じ問いが、あの夜より低く出た。技師は目を伏せた。
年配の主任が、助け舟のつもりか口を挟んだ。
「速度を戻しては。7分型なら、崩れる前に切り終わるのでは」
「崩れる速度も上がるだけだ。港のデモの等級を、もう忘れたのか」
定義できないものは、この会社には存在しない。存在しないはずのものが、いま38基の白い腕を黙らせている。
部下の誰かが、答え合わせのように調査団の公開アーカイブを開いた。同じ海の、同じ甲殻獣。深夜の男が素材に手のひらを置く。待つ。それから、薄い一枚を剥がす。
――崩れない。
角度は手順Mと同じ。速度も同じ。違うのは、待つ長さだけだった。
「……全ユニット、待機のまま維持。本日は解散」
退出間際、若手の端末から聞き慣れた包丁の音が漏れた。深夜の店の、船上ライブだ。技師が青くなって消そうとするのを、ミルズは手だけで制した。
「消すな。……それも観測データだ」
人の引いた管制センターで、ミルズは一人、再生リストを開いた。
画質の粗い、いちばん古い夜。同接3。狭いキッチンで、男がC級の魔猪に刃を入れている。何周目かは、もう数えていない。
0.25倍速に落とす。
刃を入れる前、男は必ず素材に手のひらを置く。1.2秒から4.6秒。長さは毎回違う。手順Mはこの動作を「休止」と分類し、平均値の2.8秒で固定した。
……固定した。
毎回違う長さを、平均で塗り潰した。
あの2.8秒で、男は何をしている。測っているのか。それとも――聞いているのか。
ふと、舌の奥に丼の記憶が戻った。提供温度62度。数値は全て想定内で、想定を超えていた一杯。あの夜もあの男は、品を置く前に一拍だけ待った。
ミルズは自分の右手を開いた。人差し指の付け根に、古い切り傷の痕がある。この手の由来を聞いた人間は、社内に一人もいない。
着信。役員会の緊急回線だった。
『試験中断の情報が漏れています。株価は2.3%の下げ。この局面でのCEOの現地入りは、統治上のリスクが――』
「中断だ。凍結ではない」
『世論は区別しません。いま竜宮に向かえば、失敗を認めた絵になります。データ上、渡航に合理性が――』
「合理性なら、ある」
ミルズは粗い画面の中の手元を見たまま言った。
「38基のログと、検証場の特等。どちらも本物のデータだ。データは嘘をつかない。……ならば、測り損ねているのは私の側だ」
『CEO、それは――』
「現場でしか取れない数値がある。取りに行く。それだけの話だ」
回線を切る。反対票の数は、聞くまでもなかった。
離陸前、端末が最後のニュースを拾った。『オムニ社の新型、竜宮で全基沈黙』。見出しの下で、株価のグラフが崖を描いている。ミルズは画面を伏せなかった。数字から目を逸らす人間に、数字を語る資格はない。
夜明けの滑走路に、社用機が翼を温めていた。
随行は秘書が一人。行き先は南の海溝――正確には、その手前に浮かぶ国際調査団の母船だ。報告書によれば、あの深夜の店が車両ごと甲板に載っているという。
タラップを上がる寸前、秘書が控えめに聞いた。
「現地の日程は、どう組みますか」
「夜を空けておけ。……深夜0時以降を、だ」
ミルズはシートに沈み、目を閉じる代わりに端末を開いた。粗い画面の中では、まだ視聴者3人の深夜が続いている。
誤差率0.02……ありえない。ありえないなら、確かめるまでだ。
機体が浮いた。眠った38基の白い腕を追い越して――世界で最も高価な誤差が待つ海へ、機首が向いた。




