第46話 崩れる素材
潜行艇の窓の外は、青を通り越して黒に近い。
深度計の数字が回っていく。四十時間の突貫で組んだ初潜行だ。船を出る前に寸胴の火だけは落としてきたが、頭の隅ではまだ仕込み表がめくれている。
俺の手は、膝の上の包丁袋を撫でていた。
「緊張、してる?」
隣のリンが言う。護衛の腕章が、暗い艇内でも白い。
「してるように見えるか」
「……袋、ずっと撫でてる」
「刃物と話す性分でね」
言い訳としては我ながら苦しい。リンは追及しなかった。代わりに膝の上で、配給の携行食をもう開けている。
ちなみにその携行食は、出がけに俺が詰めた特製だ。味気ない仕事の日ほど、飯くらいは味がしたほうがいい。
「……おいしい」
「そうかい。おかわりは帰ってからだ」
竜宮の入口は、海溝の縁に開いていた。
艇のライトが門を舐める。珊瑚とも貝殻ともつかない白い縁が、渦を巻いて口を開けていた。中に水はないらしい。ダンジョンってのは相変わらず、物理の帳簿を無視して商売してやがる。
接舷。支給の作業ヘルメットの顎紐を締める。ハッチが開く。
最初に降りたのはガルシアだった。岩の巨体が門をくぐって、片手を挙げる。
「モンダイ、ナシ」
「露払いまで常連の仕事か」
「ジョウレン、ハ、マンノウ」
単語の格言がまた増えた。
――で、中だ。
正直に言う。見惚れた。
天井は硝子細工みたいな半透明で、その向こうを深海の水がゆっくり流れている。壁は真珠層。床は白い砂地で、腰の高さの珊瑚めいた柱が林のように立ち並んでいた。
柱の一本一本が、内側から薄く光っている。行灯を仕込んだ寿司屋のカウンターだ。悪くない内装だった。
《なにここ竜宮城じゃん》
《天井の向こうを海が流れてる……》
《内装費いくら》
《大将、完全に市場を見る目してる》
肩の中継カメラは、母船のこはくに繋がっている。イヤホンの向こうで本人が騒いだ。
『大将! 初潜行の同接、ガチで跳ねてます! 第一声ください、第一声!』
「そうだな。……いい厨房になりそうだ」
『第一声が業者!』
実際そうなんだ。見てくれが竜宮城でも、俺の仕事は素材の目利きで変わらない。
ただ――その目利きの鼻が、さっきから留守番をしていた。
匂いがない。
魔獣の縄張り臭も、水場の生臭さも、黴のひとつもない。生き物のいる場所ってのは、良くも悪くも台所の匂いがするもんだ。ここにはそれがない。
綺麗すぎる厨房ってのは、大抵、火を落として長い。
広間へ出る手前で、天井の向こうを影が過ぎった。
鯨ほどもある魚型の魔獣だ。リンの手が剣の柄に掛かり、ガルシアが半歩前に出る。
だが、影はこっちに見向きもしなかった。硝子の向こうをゆっくり流れて、暗がりへ消えていく。
「……戦う気、なし」
「テキイ、ナシ。ヘイワ」
「客扱いされてないだけだろ」
軽口を返しながら、別のことを考えていた。あの泳ぎには芯がなかった。売れ残りの生簀の魚が、ああいう尾の振り方をする。
浅層の広間では、先行の観測班が検体を確保していた。
蟹型の小物だ。甲羅の照りは上物で、脚の付け根もよく張っている。市場に出せば仲買が三人は群がる面構えだった。
「手順どおり、外殻の継ぎ目から入ります」
鳴海だった。選抜組の最初の刃は自分が、と志願したらしい。慇懃な声のまま、包丁を構える。
地方の解体場で研ぎ直した、あの一本だ。
刃が、継ぎ目に触れた。
音はなかった。
甲羅の照りが消える。色が抜ける。輪郭が緩む。
一拍おいて、蟹だったものは白い砂の山になっていた。
鳴海は動かなかった。ただ、柄を握った手の甲で腱が浮いては沈んでいる。
「……映像では、見ていました」
「生で見ると別もんだろ」
「はい。……手応えが、何も」
わかる。刃ってのは切った感触で仕事の成否を教えてくる。その感触ごと消えるってのは、職人の言葉が通じない相手ってことだ。
観測班が砂を採取していく。匙で掬うたび、山の残りが自重で崩れて裾を広げた。砂時計の中身を見てる気分だ。
リズが進み出た。
「ししょう。わたしにも、一枚」
「やってみろ。深追いはするな」
双頭の鷲の包丁が、二匹目の継ぎ目に触れる。娘の入りは丁寧だった。角度もいい。
それでも、砂だった。
「……っ」
「刃のせいじゃない。手のせいでもない」
「では、何のせいですか」
「それを調べに来た」
三匹目は、切らないことにした。
まず目だ。蟹の目玉ってのは死んでも暫く濁らないもんだが、こいつのは澄みすぎている。硝子玉の澄み方だ。
次に、脚を一本つまんで振る。重さはあるのに揺り返しがない。生き物の肉ってのは死んでいたって水を抱えてる。こいつは、中で何かが乾いてる振り方だった。
最後に、甲羅を指の背で叩く。
こん、と返った音に、市場で百回は聞いた音が重なった。
巣の入った西瓜。芯まで乾いた大根。中で死んでる音だ。
「……真壁さん。何かわかりましたか」
観測班の班長が覗き込んでくる。俺は蟹を置いた。
「これは腐りだ。それも、外からじゃなく内側から」
「腐り……ですが、外見はどこも」
「外側は上物だよ。皮一枚は生きてる。その下が芯から死にかけてる。だから刃が入った瞬間、支えを失って崩れる」
説明するより、見せたほうが早い。
まず、甲羅に手のひらを置いた。倉庫の十年で染みついた、ただの癖だ。手が「今だ」と言うまで、二拍ほど待つ。
包丁を出す。峰を親指で確かめて、蟹の関節に――ごく浅く、皮一枚の厚さで入れた。
崩れない。
薄紙みたいな一枚が、刃の上に乗っている。透かすと、断面の内側に灰色の霜が走っていた。
《え、切れた》
《なんで大将だけ切れるの》
《断面、霜降りみたいになってる……》
《これが「腐り」……?》
『だ、大将! 今、何したんですか!』
「何って、薄く剥いだだけだ。死にかけの層に体重を掛けなきゃ、崩れる理由がない」
イヤホンの向こうと観測班が、同時に黙った。解説したつもりなんだが、何がまずかったんだろうな。
――で、ここからが本題だった。
剥いだ一枚を検体袋に収めて、床の砂をひとつまみ拾う。指で擂った。粒が細かい。細かすぎる。
波が作る砂ってのは、もっと不揃いなもんだ。これは揃いすぎている。
立ち上がって、手近の光る柱に歩み寄った。
『真壁さん。単独行動の前例は――いえ、規定にありません』
「触りゃしませんよ。……いや、すまん。指の背だけ」
葛城さんの通信を半分だけ聞き流して、柱を叩いた。
こん。
同じ音だった。蟹の甲羅と、同じ音。
柱の光が、心なしか瞬いた気がする。行灯の芯が油を切らしかける、あの瞬き方だ。
視線を上げた。硝子の天井から真珠の壁まで、ゆっくり見渡す。
綺麗な内装だと思った。撤回する。これは盛り付けだけ整えた、古い仕出しだ。
リンが隣に来ていた。
「……どうしたの」
「リン。この床の砂、なんだと思う」
「……砂は、砂」
「柱と同じ音がした。つまり、最初から砂だったわけじゃない」
口にした途端、背中がすっと冷えた。職人の見立てってのは、たまに頭より先に答えを掴む。
この柱も、あの壁も、検体の蟹と同じだ。皮一枚の下で、芯が乾き始めている。
葛城さんが通信の向こうで何か言いかけて、飲み込む気配がした。弾幕も、いつの間にか流れを止めている。
静かな厨房だ。静かすぎる。火を落として長い厨房でも、どこかに残り火の匂いは残るもんだが――ここのは、もう消えかけている。
俺は無線の全体回線を開いた。母船にも、中継の向こうにも届く回線だ。
「――この階層、丸ごと『死にかけ』だ」




