第45話 海の上のまかべ食堂
海の上の厨房に、文句はひとつだけある。床が揺れることだ。波が船を持ち上げるたび、厨房ごと呼吸をする。
寸胴の汁面が斜めに傾ぐ。まな板の上で素材が滑ろうとする。だから足場を半歩広く取って、刃を指二本ぶん寝かせた。それで済む話だ。道具と段取りは、場所が変わっても嘘をつかない。
ついでに言えば、海の湿気は出汁の輪郭をひと回りぼかす。塩をひとつまみ足して、輪郭だけ戻す。うちの味は、緯度が変わっても変えない。
昨夜の映像のせいで、船の空気は硬かった。甲板が砂になる画ってのは、船乗りには効きすぎる。通路ですれ違う隊員の歩幅が、みんな半歩狭い。
だから店は、予定どおりに開けることにした。開くのが店の仕事だ。それ以外にできることも、俺にはない。
開店前には、船の司厨長が視察に来た。白い制帽の、腕に自信のありそうな親父さんだ。俺の包丁の入れ方を黙って十分ほど眺めて、帰り際に一言だけ残していった。
「冷蔵庫、使っていい」
多分あれは、司厨長なりの国交樹立だ。ありがたく使わせてもらう。
素材は船倉に一月ぶん。市場で吟味した魔獣肉と、継ぎ足しのタレの一本槍。陸の店と同じ棚順で積んだから、目をつぶっても手が届く。
船内営業、初日の深夜。甲板の隅の「まかべ食堂」には、暖簾を掛ける前から行列ができていた。
問題は、顔ぶれだ。
北の国の氷雪系ランカー。砂漠の国の序列二位。海峡の守り神と呼ばれてるらしい大男。ニュースの向こう側にいるはずの顔が、パイプ椅子で眠そうに並んでいる。腰のもんだけで小国の軍が買えそうだ。
時差ってのは偉大だな。世界のどこかの「最強」を、毎晩必ず深夜に放り込んでくる。
《船の上でも開店してて草》
《行列の平均戦闘力がおかしい》
《世界一守られてる屋台》
《時差ニキ、今夜も全員集合》
こはくの公式ミラーは今夜も回っている。同接の桁は、見ないことにした。
「ナラビ、ジュンバン。ワリコミ、キンシ」
列の脇で、ガルシアが自作の番号札を配っていた。岩みたいな図体に手書きの整理券。似合わなすぎて、逆に堂に入っている。
「お前は客だろうが」
「ワタシ、常連。テツダイ、トウゼン」
「その理屈、海の上でも育つんだな」
言ってるそばから、盆を三枚重ねで運んでいく。給仕の筋がいいのが、ちょっと腹立たしい。
口開けの一杯は、氷雪系の姉さんだった。魔獣骨の出汁に、港の市場で仕込んできた味噌。丼を数秒だけ睨んで、一口。
それから、無言で丼を抱え込んだ。
国境ってのは、大体あれくらいの距離らしい。
《抱えたぞ》
《丼が国際問題を解決してる》
《海外ニキ「HOT SOUP DIPLOMACY」》
《深夜に見るんじゃなかった定期》
「大将! 同接、ガチで七桁乗りました! 地球のどこかしらが必ず深夜なので、実質二十四時間ゴールデンです!」
三脚を担いだこはくが、列の外から親指を立てる。
「そりゃ何よりだ」
「発掘した私が言うのもなんですが、まかべ食堂、もう国際機関なのでは?」
「うちは飯屋だ。国際機関は味噌汁を出さないだろ」
行列の会話は、よく聞けば半分が同じ話題だった。昨日の観測船。砂になった甲板。言葉は国ごとに違っても、声の低さは万国共通だ。
だから今夜は、黙って全部大盛りにした。腹の底が冷えてる連中に店主ができることは、それくらいしかない。
氷雪の姉さんが、空の丼を掲げてガルシアを呼び止めた。
「……オカワリ」
「オカワリ、イチバン、イイコトバ」
どこで覚えたんだか。いや、教えた奴の見当はつく。番号札の岩男が、誇らしげに胸を張っていた。
カウンターの端は、いつの間にか指定席になっていた。
「……おかわり。大盛りで」
「三杯目だぞ」
「護衛は、体力勝負」
リンの隣で、砂漠の序列二位が自分の丼と彼女の丼を見比べていた。何か言いかけて、やめたらしい。賢明な判断だ。
「……昨日の、映像」
「見たか」
「砂になるなら、剣は効かない。……多分」
「効かせ方の算段は、こっちで立てる。あんたの仕事は食って寝ることだ」
リンは箸を置きかけて、やめた。それから四杯目を頼んだ。仕事熱心で結構なことだ。
リズは洗い場で丼を磨いていた。
「ししょう。船の水は、刃に悪いですか」
「真水なら平気だ。塩水で刃物を洗う馬鹿はいない」
「はい。……この船の厨房、広いです。一族の工房に、その」
「似てるか」
「……一枚ぶんだけ、似てます」
娘の物差しは今日も一枚単位だ。悪くない単位だと思う。
鳴海は列の最後尾にいた。選抜組の腕章で割り込める立場だろうに、律儀に番号札を握っている。
「……ごちそうさまでした」
「おう。明日も並べ」
丼を返すときの一礼が、板についてきた。
夜半を過ぎる頃には、行列が円卓に化けていた。
言葉は通じない。だが丼を指差して親指を立てる仕草は万国共通で、おかわりの手の挙げ方も大体同じだ。海峡の大男が、氷雪の姉さんに味噌の椀を勧めている。通訳はいない。胃袋が全部やっている。
誰かが祖国の携行食を出して、味噌汁に沈めて怒られている。国際交流ってのは、多分ああいうのでいい。
《国連より機能してる》
《この船だけ平和条約が要らない》
通路の歩幅が、少しだけ戻った気がした。飯ってのは、そういう道具だ。
閉店間際。葛城さんが階段を二段飛ばしで降りてきた。役人が走るのを見るのは、これで三度目だ。数えるのはもうやめよう。
「真壁さん。観測データの解析が出ました」
「食ってからにしますか」
「……崩れの進行が、想定の倍です。予定日まで待てば、予定海域ごと持ちません」
葛城さんは一度言葉を切った。円卓の名残を見て、声を落とす。
「初潜行を前倒しします。三日後ではなく――四十時間後に」
「……前例は」
「ありません。前例のない海で、前例のない前倒しです」
胃薬の包みが、またひとつ封を切られた。船医と仲良くなれそうだな、あの人は。
四十時間。口の中で転がして、頭の中の仕込み表を二枚めくり直す。
寸胴の底で、出汁が静かに煮えている。仕込みってのは時間との勝負が相場だが、今回は相手の鍋がでかすぎる。
――閉店作業を巻こう。うちの開店より先に、竜宮のほうが開きやがる。




