第44話 出港
店ってのは、動かないから店なんだと思っていた。
考えを改める。うちの店は今、朝の港の空を飛んでいる。
クレーンのワイヤーに吊られて、フードトラックが母船の甲板へ渡っていく。庇の看板が風でかたかた鳴った。文句を言ってるらしい。あとで油を差してやる。
《店が飛んでる》
《進水式ならぬ進水店》
《海外ニキ「THE SHOP IS FLYING」》
《大将、顔が完全に保護者》
保護者で悪いか。あの車には寸胴と包丁一式が積んである。
タレの瓶だけは、俺が手で運んだ。開店の日から継ぎ足した一本槍だ。あれに保険は利かない。
――話は、昨夜に遡る。
出港前夜。店は貼り紙を一枚だけ出した。
『臨時休業。行き先、南の海。帰りは必ず』
『胃袋』のときと同じ文句だ。違うのは、今回は店ごと行くことと、貼り紙の前の行列が過去最長だったことくらいか。
常連は総出だった。夜勤明けの男は花束の代わりに醤油の一升瓶を提げてきた。
「船の上で切れたら困るだろ」
差し入れの作法として、満点をやりたい。
ガルシアは列に並ばず、当然の顔で盆を運んでいた。
「ワタシ、常連。テツダイ、トウゼン」
「常連の定義がまた育ってるな」
リズは店の隅に荷物の山を築いて、双頭の鷲の包丁を何度も検分していた。
「ししょう。刃は、船旅で痩せますか」
「師匠じゃない。潮風にさえ当てなきゃ平気だ。布を一枚多く巻いとけ」
「一枚……はい。一枚は、大事です」
娘の中で何かの格言が増えた気がするが、まあいい。
鳴海は閉店間際に来た。膝の泥はもう落ちていて、代わりに大きな道具袋を背負っていた。
「明朝五時、集合場所に入ります。遅れません」
「そうかい。ほれ、賄い。冷める前に食え」
「……いただきます」
それだけだ。それだけでいい夜だった。
葛城さんだけが、宴の隅で手帳と睨み合っていた。
「真壁さん。国際調査母船に営業中の飲食車両を載せた前例は、ありません」
「なら今回が前例でしょう」
「……その台詞、明日から私が各国に言わされるんですよ」
胃薬の封が切られた。出港前から世界規模とは、先が思いやられる。
――で、朝に戻る。
店は無事に着地した。甲板の隅、通路と非常口を避けた一等地だ。場所決めには俺も口を出した。動線ってのは、店の命だからな。
埠頭には見送りの人垣ができていた。常連の顔。市場の顔。選抜に落ちた連中の顔まである。
夜勤明けの男が、腹の底から怒鳴った。
「大将ーッ! 絶対帰ってこいよ! 腹減らして待ってるからな!」
「あいよ。研いで待ってろ」
何を研ぐんだかは知らんが、ああいうのは勢いで言うもんだ。受けるほうも勢いでいい。
タラップが上がる。選抜の二十人が持ち場へ散っていく。リズの背筋は反り返る寸前まで伸びてるし、鳴海は誰より先に荷の固定を確かめている。悪くない船になりそうだ。
手すりに寄って埠頭を見下ろしていたら、隣にリンが立った。
フードは被っていない。護衛の腕章が、細い腕に少し大きい。
「……前は、待つ側だった」
「『胃袋』のときか」
「今回は、隣で見てる。護衛だから」
「頼もしいよ」
「……それと」
リンは埠頭のほうを見たまま、言った。
「約束。忘れてない」
「どっちのだ。ぜんぶ言うほうか、大盛りのほうか」
「……両方。まとめて、帰ってから」
「あいよ。終わったら、いつもの時間に。いつもの店だ」
リンは小さく頷いた。それきり黙ったが、手すりを握る手から力が抜けたのは、見なかったことにしてやる。
「お待たせしました! 公式多言語ミラー、全チャンネル同時オープンです!」
三脚を担いだこはくが、甲板を滑り込んできた。腕章は公式中継のやつだ。
「出港の瞬間、世界同時でお届けします! 発掘した私が言うのもなんですが、同接がガチでやばいことになってます!」
端末の隅で数字が回っていた。六桁の後半。まだ汽笛も鳴ってないのにだ。
深夜は暇人が多い。世界規模で多い。前からそう思ってたが、どうやら朝もらしい。
《世界のみんな、おはよう》
《こっちは深夜だ》
《時差ニキ大量発生で草》
《行ってらっしゃい、俺たちの店》
汽笛が、鳴った。
腹に響く長い一声。埠頭の人垣が手を振る。船が、岸を離れる。
見送られる側ってのは、思ったより据わりが悪い。俺は結局、手を振る代わりに頭を下げた。閉店の口上のあとに客へやる、いつもの角度でだ。
《いってきますじゃなくて一礼なの、大将すぎる》
《泣くわこんなん》
《店は帰ってくる。予約入れとけ》
陸が細くなる。街が線になる。線が霞んで、消えた。
あとは海だけだ。でかい厨房に来たと思えばいい。
その夜。明日からの船内営業に備えて、仕込みの段取りを書き出していた。リズは包丁の布を巻き直し、ガルシアは早くも行列の整理札を自作している。気が早い。
通信室の扉が、乱暴に開いた。
葛城さんが走ってくる。役人が走るのを見るのは、これで二度目だ。
「先行の観測隊から、緊急信号です」
食堂のモニターに、洋上の映像が繋がった。
観測船の甲板。隊員が転がるように後退っていく。その足元で――鉄が、砂になっていた。
手すりが崩れる。甲板の縁が輪郭を失って、白い粉が海風に流れていく。素材の話じゃない。船が、端から消えている。
「崩れるのは、素材だけではなかったのですか」
誰かの声に、葛城さんは答えなかった。答えの代わりに、胃薬の包みが床に落ちた。
――竜宮は、こっちの段取りを待つ気がないらしい。




