第4話 深夜0時の生姜焼き
無職、十六日目。
スーパーのレジで「今夜はご馳走ですか」と聞かれた。
「ええ、まあ。仕事みたいなもんで」
籠の中身は生姜三袋と玉ねぎ一網、それに米を五合。
無職の買い物にしては、我ながら景気がいい。
昼のうちに、タレを仕込む。
醤油、酒、味醂。摺り下ろした生姜はたっぷり。砂糖は控えめにして、代わりに魔猪の背脂をひとかけ溶かし込む。
普通の豚の配合じゃ駄目だ。魔猪の脂は融点が低い。甘味が強すぎると、脂が舌の上で溶けきる前に、味のほうが先にゴールしてしまう。
素材が決まってるなら、頭を下げるのはレシピのほうだ。
冷蔵庫から、例の魔猪ロースを出す。
捌いて二日。熟成はちょうど食べ頃に乗ったところだ。指の背で押すと、脂がうっすら汗をかく。よし。
「──今夜は、頼むぞ」
肉に挨拶する三十四歳。誰にも見られていなくてよかった。
いや、今夜は見られるのか。何百人かに。
深夜零時。『おっさんの解体キッチン』第三回。
配信開始のボタンを押して、三秒。
【視聴者:1,800】
「……増えてないか?」
《待ってた》
《飯テロ初回、歴史の証人になりに来た》
《夜勤明けで腹ペコなんだが?》
《白瀬こはく:来ました! 今日という日をクリップする女です!》
「飯を作るだけだぞ」
《その「だけ」を見に来たんだよ》
《人間国宝の「だけ」は「だけ」じゃないんよ》
「今日はこないだの魔猪ロースで、生姜焼きを作る。──まずは切るところからだ」
熟成の上がったロースをまな板に据える。
生姜焼きの肉は、薄けりゃいいってもんじゃない。魔猪なら厚さ四ミリ。脂の層が口の中で「先に」溶けて、赤身がそれを追いかける厚さだ。
筋引きを寝かせて、引く。
すっ、と音もなく、断面が鏡になる。
《切ってるとこ何も聞こえないんだが》
《肉が抵抗してない》
《まな板さん、仕事ある?》
「筋繊維に対して直角。あとは刃に任せる。包丁ってのは押すもんじゃない、引くもんだ」
四ミリ、四ミリ、四ミリ。
定規で測ったように同じ厚さの肉が、並んでいく。
《これもう工芸品だろ》
《並んだ肉を見てると精神が整う》
フライパンに火を入れる。油は引かない。端の脂身を一切れ、先に泳がせてやれば足りる。
玉ねぎは繊維に沿って。先に七割まで火を通して、一度引き上げる。
「肉と玉ねぎは火の通る速さが違う。同じ鍋で同時に正解にしようってのが、そもそも欲張りなんだ」
そして、肉。
じゅわ、と脂の爆ぜる音が、深夜の台所に響いた。
《音がやばい》
《スピーカーから脂の匂いした気がする》
《深夜に見るんじゃなかった》
《やめろ(見ます)》
白い湯気。縁がちりっと反ったところで返して、タレを回し入れる。
生姜の香りが立った瞬間、コメント欄が悲鳴で埋まった。
《うわああああ》
《白米炊いてくる、待ってろ》
《こんな時間に米を炊かせる男》
《白瀬こはく:罪です! これは罪の配信です!》
玉ねぎを戻し、タレを絡めて、照りが出たら火を止める。
丼に飯。その上へ肉を扇に並べて、フライパンに残ったタレを最後の一滴まで。
仕上げに、昨日引いておいた魔猪骨の出汁で味噌汁を一杯。骨まで食ってこそ、解体した甲斐があるってもんだ。
「──完成。魔猪ロースの生姜焼き丼」
湯気が、レンズを一瞬曇らせた。
《飯テロってレベルじゃない》
《通報した(腹の虫が)》
《頼む、食うとこ見せてくれ》
「じゃ、いただきます」
一口。
……うん。十年の道楽が、ようやく一仕事した味がする。
脂が先に溶けて、生姜が追いかけて、赤身が締める。狙い通りの順番で、口の中を通り過ぎていった。
「美味い」
《感想それだけ!?》
《グルメリポートしろ》
《いや「美味い」しか言わない奴が一番信用できる》
そのときだった。
滝のように流れていたコメント欄が、一行の書き込みで、すっと割れた。
《rin:それは、どこで食べられますか》
短い。そして、妙に真剣な一文だった。
《誰?》
《腹を空かせた迷い子が来た》
《文面が真剣すぎて草》
《rinって人、前回も視聴者欄にいたぞ。無言の常連だ》
「どこでって……うちは店じゃないからなあ。ここは、ただの俺の台所だ」
数秒、間が空いて。
《rin:そうですか》
それだけだった。
それだけなのに、腹を空かせた子供を追い返したような、妙な後味が残った。
《rinさん、しょんぼりしてて草》
《店やれよおっさん》
《人間国宝の生姜焼き、俺も食いたい》
《白瀬こはく:お店できたら私、毎日通うんですけど!?》
「店、ねえ」
笑って流して、その日の配信を締めた。同接は、最後まで二千を切らなかった。
配信を切ったあとの台所で、洗い物をしながら考えた。
肉ってのは、捌いて終わりじゃない。食われて初めて、素材は成仏する。
なら──画面の向こうの腹の虫は、どうやったら成仏するんだ。
冷蔵庫を開ける。最下段の奥、布をかけた一番上等な一角。十年分の道楽が、出番を待って眠っている。
こいつらを画面の中の絵で終わらせるのは、それこそ素材への冒涜じゃないのか。
スマホを取って、検索窓に打ち込む。「フードトラック 中古」。
一番安い出物は、だいぶくたびれた軽の改造車だった。へこんだ荷台に、色褪せた庇──妙に、十年使い込んだ俺の筋引きに似た面構えをしている。
「──店でも、やるか」
深夜二時の台所で、無職の解体屋がそう呟いた。
この独り言がのちに「深夜0時にしか開かない伝説の店」の創業宣言と呼ばれることになるなんて、このときの俺は、まだ知らない。




