第3話 人間国宝、発掘される
無職、十五日目の朝。
枕元のスマホが、見たことのない数の通知で埋まっていた。
【あなたのクリップが再生されています】
【クリップの再生数が10万を超えました】
【クリップの再生数が30万を超えました】
「……新手の詐欺か?」
四十秒のクリップ。映っているのは、俺が魔猪の肋骨を外している手元だけだ。
再生数、四十八万。
倉庫の十年間、俺の手元を見た人間は、多めに数えても二十人いない。世の中の暇人を、俺は甘く見ていたらしい。
とりあえずスマホを伏せて、昨日の魔猪の骨を鍋に放り込んだ。出汁を取るには三時間かかる。詐欺の検証より、そっちが先だ。
その日の深夜零時。
『おっさんの解体キッチン』第二回。配信開始のボタンを押した、その三秒後だった。
【視聴者:214】
「……は?」
二度見している間に、数字は三百を超えた。
《来たぞ》
《本物だ》
《クリップから来ました》
《人間国宝ってここで合ってる?》
コメント欄が、滝みたいに流れ始める。三人だった台所に、いきなり満員電車が乗り込んできたような気分だった。
「えー……今日は、ずいぶん多いな」
《本人が一番わかってなくて草》
《誰か説明してやれ》
「あれか。深夜ってのは、思ったより暇人が多いんだな」
《違う》
《そうじゃない》
《お前を見に来たんだよ!》
そうこうしているうちに、ひときわ騒がしい名前がコメント欄に飛び込んできた。
《白瀬こはく:来ました! クリップ作った犯人、私です!》
犯人。
「ああ、あんたか。例の広告の」
《白瀬こはく:広告じゃないです! クリップです! 配信の切り抜きです!》
《白瀬こはく:第一回も最初からいました! 無言ですみません、クリップ作るのに必死で!》
無言の三人目は、あんたか。物好きの正体は、案外早く割れた。
《白瀬こはく:まかべさん、あれ48万再生いってるんですけど!? 私の動画ぜんぶ足した100倍なんですけど!? ガチでやばいです!》
聞けば、この子も配信者らしい。探索者をやりながらダンジョン配信をして、登録者は三桁。先週上げた動画の再生数は二百十一回だと、聞いてもいないのに教えてくれた。
《白瀬こはく:「深夜に人間国宝がいる」って書いて流したら、一晩でこれです! 私、見る目だけはガチなので!》
「人間国宝はやめてくれ。ただの解体屋だ」
《また言ってる》
《人間国宝、謙遜の定型文をもう持ってる》
「まあ、いい。始めるか」
今日の素材は、C級の魔兎。体長六十センチ、毛皮つき。
「こないだ、どこかの動画で魔兎が可哀想な捌かれ方をしてるのを見てな。今日のは──まあ、供養だ」
《供養で草》
《急に重いって》
魔兎ってのは、解体師泣かせの素材だ。毛皮はC級のくせに上等で、肉は淡白で美味い。ただし皮下の筋膜が紙より薄い。引っ張れば破れ、破れれば毛が肉に散る。
だから、引っ張らない。
「皮を剥ぐときはな、皮を引くんじゃない。肉のほうを押して、逃がしてやるんだ」
刃先は使わない。刃元の腹で、境目をなぞるだけ。
毛皮が一枚布のまま、するりと裏返った。肉には毛の一本も残っていない。
コメント欄が、また止まった。
《え?》
《今の何?》
《服を脱がせたみたいに剥けたんだが》
《魔兎の皮剥ぎでこれは無理》
《手元アップしてくれ》
「アップって、こうか」
スマホに包丁ごと近づける。画面の中で、十年物の筋引きがぬらりと光った。
《刃こぼれひとつない》
《研ぎから違うんよ》
《この人、何者?》
《元プロでしょ。どこのクランにいたの?》
「どこの、ってこともないさ。今は無職の、ただの解体屋だよ」
《絶対ただじゃない》
《「ただの解体屋」って言う奴が一番ただじゃない》
視聴者の数字が、画面の隅で音もなく増え続けていた。
八百。九百。
零時四十分、千二百。
倉庫で独りで捌いていた十年間、俺の手元を見ていたのは蛍光灯だけだった。
それが今夜は、千二百人。
……妙な世の中になったもんだ。
《白瀬こはく:同接1200!? 私の最高記録の100倍なんですけど!?》
《お前の数字の話はもういいんだよ》
《こはくちゃんは発掘者だから許される》
魔兎が毛皮一枚、肉、骨、筋の整然とした列に分かれる頃には、零時を一時間ほど回っていた。
「毛皮はなめしに出す。骨と筋は明日の仕込みに回す。──捨てるところは、ないよ」
《気持ちいい》
《並んでるの見てると眠くなってきた》
《ASMRより効く》
「じゃ、今日はここまで。お疲れさん」
《もう終わり?》
《次いつ?》
《次回予告して》
予告、ねえ。
考えてみれば、冷蔵庫には捌いたばかりの魔猪のロースがある。熟成はちょうど食べ頃。出汁も、昼に引いたやつが寸胴に一杯。
肉ってのは、捌いて終わりじゃない。食われて初めて、素材は成仏する。
「そうだな。──次は、捌いた肉で飯でも作るか」
コメント欄の流れが、一瞬止まって。
それから、爆発した。
《は?》
《飯?》
《深夜0時に?》
《飯テロ予告やめろ》
《絶対見る》
配信を切ってから、少し軽率だったかと頭をかいた。深夜の飯ってのは、罪が重い。
──だが、このときの俺はまだ知らなかった。
深夜零時の台所から立ちのぼる一杯の湯気が、この先どれだけの人間の腹を──そして、人類最強の腹を、空かせることになるのかを。




