第39話 十億の男
十億って数字は、でかすぎて実感がない。
俺の実感が届くのは、せいぜい仕入れ値までだ。雷角牛のブロックが一本いくら。磯鎧蟹が一杯いくら。それより上の桁は、俺の中じゃ全部「高い」で一括りだ。
開店前。カウンターに端末が突き出された。こはくだ。
「調べました。オムニ・マテリアルズ。ガチのやつでした」
「どうガチなんだ」
「世界最大の素材企業です。自動解体機オート・カーヴァーのメーカーで、いま世界の解体の七割は機械です。……その七割ぶんの解体師を、失職させた会社です」
「穏やかじゃないな」
「CEOはヴィクター・ミルズ。経済誌の表紙の常連です。昨日の弾幕の『買いに行くぞ』、たぶん冗談じゃないです」
画面の中では、銀髪の男が壇上に立っていた。見出しの訳文が下に添えてある。
『職人は誤差だ』
「うちの業界じゃ、友達の少なそうな口癖だな」
軽口を叩きながら、俺は男の手元を見ていた。レーザーポインタの握り方に、妙な年季があった。ペンの持ち方じゃない。刃物の持ち方だ。
気のせいだろう。仕込みに戻った。
その夜の配信は、磯鎧蟹だった。
《神父、オムニの噂ってマジ?》
《買収されたら深夜が課金制になるの?》
《やめろ。俺の癒しが有料化する》
《大将は売り物じゃないぞ》
「売り物は丼だけだ。ほら、手元を見ろ。この薄皮の上を滑らせて――」
《あ、話そらした》
《そらしてない。いつもの授業だ》
噂ってのは、放っておくと育つ。だが俺にできるのは、目の前の甲羅を外すことだけだ。
パキ、と乾いた音。今夜も身は無傷だった。
閉店三十分前。行列の最後尾に、その男は立っていた。
画面で見たままの銀髪。連れはなし。黒塗りの車は、駐車場の外に停めさせたらしい。
列には並ぶ。順番は抜かさない。前の客の会計も、ちゃんと待つ。
……妙な男だ。買いに来たにしては、作法が客だった。
カウンターの前に立つと、男は先に名乗った。
「ヴィクター・ミルズ。オムニ・マテリアルズの代表だ」
「知ってる。今朝、勉強させられた」
差し出された名刺を受け取る。ついでに手を見た。節が太い。人差し指の付け根に、古い切り傷の痕がある。ペンだけ握ってきた手じゃない。
「注文は、最も注文数の多いものを。データは嘘をつかない」
「雷角牛の炙り丼だな。あいよ」
端で、箸の音がひとつ止まった。リンだ。フードの奥の目が、男の一挙一動を測っている。その隣で岩は普段どおりおかわりを続けていた。図太いんだか、頼もしいんだか。
肉を炙る。タレを回す。丼を置く。
ミルズは食う前に、まず湯気を眺めた。
「提供温度、推定六十二度。脂の融点の直上。理論値どおりだ」
「難しいことは知らんが、猫舌の客が多くてな」
男は一口食った。
箸が、止まった。
「……数値は全て想定内だ。なのに、想定を超えている。なぜだ」
「そいつは俺じゃなく、牛に聞いてくれ」
ミルズは残りを黙って食い切った。綺麗な食い方だった。ああいう無駄のなさは、育ちじゃなく現場で身につくもんだ。
箸を置いて、男は懐から薄い端末を出した。カウンターの上を、静かに滑らせる。
「単刀直入に言う。ミスター・マカベ。あなたの技術を、フルスキャンさせてほしい」
「スキャン」
「全身のモーションデータと視線の軌跡。筋電。刃圧。直近三十日の配信は全て解析済みだ。刃入れ角度の平均偏差〇・四度――人間の値ではない。だが、映像だけでは再現に足りない」
「で、対価が」
「十億」
背後で、こはくが変な音を出した。豚汁が気管に入ったらしい。
端末には契約書が表示されていた。桁を数える気も起きない。
寸胴の豚汁で何杯分か、と換算しかけてやめた。桁が違いすぎて、算盤のほうが先に折れる。
「あの、これ配信回しちゃダメですよね」
「ダメに決まってるだろ」
こはくの職業病はさておき、俺は男に向き直った。
「スキャンして、どうする」
「世界中のオート・カーヴァーに配る。あなたの技は、あなたが死んでも残る。永遠になる」
「永遠、ときたか」
「あなたは深夜にしか働かない。腕は二本。寿命は有限だ。機械は眠らない。弟子に教えるより速く、世界へ配れる。悪い話ではないはずだ」
悪い話ではない、か。
本気でそう思ってる顔だった。詐欺師の顔じゃない。いいことをしてると信じてる人間の顔だ。
切り捨てる側の顔なら、前に一度見た。あれは保身の顔だった。こっちは信念の顔だ。性質が悪いのは、たぶん後者だ。
だから俺も、茶化さずに答えることにした。
「包丁はスキャンできても、素材の機嫌はスキャンできませんよ」
「機嫌。定義を」
「同じ雷角牛でも、一頭ごとに違う。水温が違う。締めてからの時間が違う。筋肉のこわばりが違う。昨日の正解は、今日の間違いだ」
「変数が増えるだけだ。全て計測できる」
「計測はできるだろうな。だが、うちの仕事は正解を覚えることじゃない。その日の素材に聞くことだ。聞く耳までは、配れませんよ」
ミルズの指が、端末の縁を一度だけ叩いた。
「……職人は誤差だ。私はそれを二十年かけて証明してきた」
声は静かだった。プレゼンの声じゃない。もっと古い場所から出てる声に聞こえた。
「あなたという誤差は、その中で最も高価な誤差だが」
「誤差で結構。うちの売り物は丼だけだ」
端末が、静かに引っ込められた。
ミルズは立ち上がり、伝票どおりの金額を一円の狂いもなく置いた。
「丼は、理論値を超えていた。原因は帰って解析する」
「原因はタレだ。企業秘密だがな」
「では、こちらも一つ開示しよう」
男がスーツの襟を正す。壇上の顔に戻っていた。
「近く、当社は南の海溝に向かう。竜宮――どんな刃でも素材が崩れる、世界最大の特異ダンジョンだ」
寸胴の湯気の向こうで、リンの箸が完全に止まった。
「では竜宮で証明しましょう。機械と職人――世界に、どちらが要るのかを」
一礼して、男は夜に消えた。エンジンの音が遠ざかり、いつもの深夜が戻ってくる。
戻って、こなかった。リンもガルシアも、箸を持ったまま俺を見ている。こはくは端末を握りしめたままだ。
ガルシアが、翻訳機をぽつりと突いた。
「アノ男、目ガ、飢エテル」
「……食い足りなかったかね」
冗談のつもりだったが、誰も笑わなかった。
リンが、箸を置いた。
「……売らないよね」
「売り物は丼だけだ。今夜だけで三回目だぞ」
「……なら、いい」
言うだけ言って、丼に戻った。早い。心配の賞味期限も、丼一杯分らしい。
「ほら、閉店だ。食いかけは食っちまえ」
寸胴の火を落としながら、考える。十億は、断った。惜しくもなかった。値段ってのは払う側が決めるもんだ。だが、売るかどうかは店が決める。
それで終わる話の、はずだった。
最後のあれは――値札のつかない喧嘩を、売られた気がした。




