第35話 言いかけた言葉
肉ってのは、焼き上がりが九割じゃない。
切る前に休ませる、その間までが料理のうちだ。
──人の話にも、同じ理屈があるらしい。だから俺は、火を落として待った。
閉店後のカウンター。
丼はとっくに空で、箸は定規みたいにまっすぐ揃えてある。
リンは背筋を伸ばしたまま、たっぷり一分は黙っていた。
「話ってのは、座って聞くもんだ。俺もそっちに回ろうか」
「……いい。そのままで」
「あいよ」
俺は布巾を置いて、カウンター越しに向き合った。
三時半。客はゼロ。配信は切ってある。
寸胴の残り湯気だけが、二人の間でのんきに揺れていた。
「……私。この店に、通うようになって。……変わったって、言われる」
「ほう」
「事務所でも、隊でも。顔つきが違うって。……それで、ずっと考えてた。何が変わったのか。……誰の、せいなのか」
「飯のせいだろう。うちの豚汁はよく効く」
「……最初は、私もそう思ってた」
リンが、息をひとつ吸った。
七年、人類の最前線を張ってきた目が、まっすぐこっちを向く。
S級の首を落とすときより、よっぽど思い切った顔だった。
「……でも、違った。飯だけじゃ、なかった。私──あなたの、ことが」
──駐車場が、真昼になった。
白いライトが三方から焚かれ、見慣れた三脚が地面を踏み、拡声器みたいな声が夜を割った。
「緊急ゲリラ企画ーー! まかべ食堂・世界残留おめでとう凱旋祭、開・宴・でぇぇぇーす!!」
こはくだった。
後ろには酒瓶を抱えた夜勤明けの男、制帽のままのタクシー運転手、両手に紙袋を提げた葛城まで立っている。
「すみません真壁さん、止めたんですが……荷物持ちとして確保されました……」
「聞いてくださいまかべさん! 例の『俺の職場は、ここだ』の切り抜き、世界トレンド一位です! 日本の配信切り抜きでは史上初! これはもう祭るしかないでしょ!?」
こはくのカメラは、もう回っていた。
画面の向こうの弾幕が店内の空気に気づくまで、三秒とかからなかった。
《……あれ? 今、なんか空気固くなかった?》
《待て。リンちゃん、何か言いかけてた》
《巻き戻し班、緊急招集》
《検証班だ。今夜ばかりは、検証していいのか分からない》
リンは、無言でフードを被った。
──被るの、卒業したんじゃなかったのか。
なし崩しに、宴会になった。
こうなったら、飯屋のやることはひとつだ。
落としたばかりの寸胴に、火を入れ直す。
「今夜は豚汁、祝い盛りだ。並べ」
「「「うす!!」」」
葛城の紙袋からは、断った先の国々の土産菓子がぞろぞろ出てきた。
「返送できない食品類です。経費でも落ちないので、供出します」
「役人ってのは、変なところで律儀だな」
夜勤明けの男が、酒瓶を掲げて音頭を取った。
「世界が欲しがった大将が、うちの駐車場に残った! それに──乾杯!」
《会場が実家で安心する》
《世界トレンド一位の祝賀会、会費が丼一杯》
《海外ニキ「私たちの敗北を、菓子で祝われている」 好き》
《肉の神父、今夜も働く》
宴の隅で。
こはくがマイクを切って、リンの隣に、そっと座った。
「……天宮さん。私、もしかしてですけど。ガチで、やばいタイミングでした……?」
「…………別に」
「その『別に』、めちゃくちゃ『別』がある声です……」
リンはフードの奥から、丼に向かって、ぼそりと言った。
「……練習、したのに」
「うわぁ……」
こはくは頭を抱えて、しばらく唸って、それから小さく息を吐いた。
「……ごめんなさい。お詫びに、今夜は史上最高に祭ります。──でも」
マイクを持ち直す手前の、配信に乗らない声だった。
「ノーカウントには、してあげません。……まかべさんを最初に見つけたのは私だって、言いましたよね。あれ、今も有効なので」
フードの奥で、リンが顔を上げた。
「……弟子は、私」
「出た! じゃあ私は発掘者なので、勤続年数では勝ってます!」
「……通った回数なら、私」
「回数はずるくないですか!?」
丼の湯気だけが、二人の間で、また呑気に立ちのぼっていた。
当の俺はと言えば、三杯目の祝い盛りを装いながら、首をひねっていた。
リンのやつ、結局、話ってのは何だったんだ。
『あなたのことが』──の続きだ。
あなたのことが、心配。あるいは、大盛りの上限を上げてほしい。妥当な線はそのあたりか。
「上限なら、考えなくもないんだがな」
独り言に、弾幕がやたらと反応した。
《鈍い》
《刃物はあんなに鋭いのに》
《素材の機微は分かるのに、なんで人間は分からんのだ》
《これが無自覚か……教科書に載せろ……》
何の話だ。
まあいい。話の続きってのは、肉と同じだ。
休ませた分だけ、味が乗る。あいつがその気になったら、また火を落として待てばいい。
宴もたけなわ、という頃だった。
葛城の懐で、携帯が鳴った。
役人は丼を置いて駐車場の隅に立ち、二度、三度うなずいて──戻ってきたときには、顔から祭りの色が抜け落ちていた。
「……真壁さん。宴の途中に、申し訳ありません」
手帳を開く手つきが、『胃袋』の夜と同じだった。
「たった今、海の向こうで──まだ世界の誰にも捌けないものが、見つかったそうです」




