第32話 ただいまの豚汁
帰る場所ってのは、建物のことじゃない。
鍋に火を入れたとき、湯気の向こうに浮かぶ顔のことだ。
──だから飯屋ってのは、いつだって、誰かの「ただいま」を預かってる。
駆け寄ってきた足音の主は、確かめるまでもなかった。
膝をついた俺の腕を、小さい手が肩に回す。
「……立てる?」
「ああ。火を止め忘れた鍋くらいの疲れだ」
「……それ、店だと一番だめなやつ」
正論すぎて、笑ったら膝の力が抜けた。
担架で地上の門をくぐった瞬間、声の壁にぶつかった。
規制線の向こうに、見覚えのある顔が並んでいた。
作業服。タクシーの制帽。庇の下の常連たちだ。
「大将ーー! 飯! 飯はまだか!」
「すまんな。仕込みに、少し手間取った」
担架の上から答えたら、規制線が、笑い声と洟をすする音で揺れた。
それから丸二日、白い天井の下にいた。
点滴を二本差され、寝て、起きたら、枕元に握り飯が三つ置いてあった。
「天宮さんです。『起きたら、まずこれ』だそうで」
椅子の上の葛城は、膝に書類の山を乗せたまま、器用に頭を下げた。
「あんたも寝てないな。顔色で出汁が濁るぞ」
「誰のせいだと思ってるんですか」
役人の軽口が出るなら、世間は無事だ。
握り飯は、塩が強めだった。
──汗をかいた人間の、塩加減だった。
ちなみに丼の注文は、テントを出る前に通した。
賄い丼、大盛り、卵二つ。医療班の白い目の中、リンは器の底まで綺麗にした。
約束ってのは、ああいう顔で果たすもんだ。
三日目の夜。退院した足で、まっすぐ駐車場に向かった。
店の庇に、見慣れない横断幕が掛かっていた。
『おかえりなさい、まかべ食堂』
三脚の前で、こはくが仁王立ちしていた。
「復活配信は私が仕切るって言いましたよね! 有言実行です!」
「おう。米は多めに発注しといた」
「同接、現在──やばい、口に出すのが怖い数字です! サーバーの中の人、ガチでごめんなさい!」
《おかえりいいいいい》
《大将だ! 本物だ!》
《世界を捌いた男の、復帰初日です》
《検証班だ。今夜は何も検証しない。ただ、飯を見る》
カウンターの一番端には、夜勤明けの男が、もう座っていた。
「……言われた通り、腹ァ減らして待ってたぞ」
「上等だ。毎度」
今夜の品書きは、一品に絞った。
約束の新作──魔猪の豚汁だ。
十割で研いだ相棒は、布に包んで棚の上で休ませてある。
今夜の厨房は、二番手の出番だ。なに、こいつも十年選手だよ。
脂の甘い肩肉を、厚めに切る。湯通しは短く、臭みだけ捨てて、甘みは残す。
大根は出汁で先に炊く。ごぼうは笹がきで、香りを立てる。
味噌は二段で溶く。一段目は煮込んで腹に。二段目は火を止めてから、香りに。
派手な技は、ひとつもない。
──帰ってきた日の飯ってのは、そういうもんでいい。
寸胴の蓋を開けると、湯気が立ちのぼって、弾幕が悲鳴で埋まった。
《深夜にこれは兵器》
《八時間の神業より、こっちのほうが効くまである》
《腹が、鳴る》
リンは、いつもの端の席にいた。
最初の一杯は、決めていた。
「ほら。約束の新作だ」
丼を置く。
リンは両手でそれを包んで、なかなか箸を取らなかった。
「冷めるぞ」
「……ん。でも、先に」
顔を上げた。
「……ただいまって、言って」
「ん?」
「おかえりは、いっぱい貰った。横断幕も、弾幕も。……でも、ただいまが、まだ」
湯気の向こうの目は、真剣そのものだった。
注文とあれば、仕方ない。
俺は前掛けで手を拭いて、店とカメラと常連に聞こえる声で言った。
「──ただいま」
「……ん」
リンは小さくうなずいて、箸を取った。
「……おかえり」
一口すすって、目を細めて。
それから、湯気の奥で少しだけ泣いた。
美味いかどうかは、聞かないでおいた。
聞くまでもない顔ってのが、この世にはある。
《今の、切り抜き禁止な。──全部見るんだ》
《泣いてない。湯気が目に入っただけだ》
《俺もだ。今夜の湯気は強い》
閉店間際。
丼を重ねていると、バイク便が一通の封筒を置いていった。
差出人──ダンジョン庁、総務課。
封筒は、辞書みたいに分厚かった。
表書きには、几帳面な役人の字で、こうあった。
──『特異ダンジョン「胃袋」事案・事後処理について(重要)』。




