第29話 人類最強の恐怖
恐怖ってのは、道具に似てる。
持ち方を知らない手の中じゃ、ただの重りだ。
──そして大抵の奴は、持ち方を習う前に、本番が来る。
その日の夜。中層に張り直した野営の中で、葛城の声は前置きを捨てていた。
「再観測の結果です。核の暴走まで、最短で六十時間。──予測より、二日早い」
「詰めるか」
「行程をです。深層の主の縄張りを、迂回せずに突っ切っていただきます」
通信の向こうで、紙をめくる音がした。役所ってのは、こんな深さの相手にも書類で来る。
「観測班の評価を読み上げます。深層の主、脅威度──災害級。交戦による対処可能者は、国内に一名」
誰も、名前を口にしなかった。する必要がなかった。
担架に人手を割いた隊列は、出発時の半分になっている。それでも、その一名は最初からここにいた。
リンは携行食の最後の一口を飲み下して、立ち上がった。
「……ん。私が、やる」
言ってから少し考えて、付け足した。
「……夜食、まだ」
「帰りに食わせてやる。仕込みの残りがある」
「……交渉、成立」
小隊長が、敬礼していいのか笑っていいのか分からない顔をしていた。
安心しろ。俺も最初はそっち側だった。
深層は、もう洞窟の顔をしていなかった。
壁は濡れて照り、ゆっくりと収縮を繰り返す。床は体温より少しぬるい。
──中だ。俺たちはもう、でかい生き物のずっと中を歩いてる。
「この大広間を抜ければ、最深部の扉です」
観測班の声が、自然と小さくなった。
その大広間の手前で、隊列は止まった。
糞がない。爪痕がない。骨も、齧られた苔の一枚もない。
ここまで散々見てきた「誰かの暮らしの跡」が、何ひとつないのだ。
「……また、綺麗すぎる場所ですか」
「いや。ここは消化が早いんじゃない。──誰も、入らないんだ」
食われる側はもちろん、食う側さえ寄りつかない場所。
そういうのを、縄張りのど真ん中と言う。
リンが、静かに前へ出た。
「……全員、下がって。──起きた」
天井が、剥がれた。
天井だと思っていた白いものが、丸ごと身を起こしたのだ。
鱗の一枚が、まな板ほどもある。
最深部の扉の前に蜷局を巻いていた、胃袋の主。
俺は確かめるより先に、口が動いていた。
「──腹の音が、しない」
こいつは、腹が減っていない。
食うために居るんじゃない。番をするために居る生き物だ。
最初の交錯は、音のほうが遅れて届いた。
リンの剣閃と、主の尾。岩の柱が、薙いだ大根みたいに飛んだ。
二合、三合。
護衛小隊は手も出せない。出せば死ぬのが、誰の目にも分かる速度だった。
四合目で、初めてリンが受けに回った。
五合目は、受けきれなかった。
小柄な体が弾かれ、岩肌をふた組み跳ねて、俺の手前で止まった。
「リン!」
「……平気」
立ち上がる。構え直す。
その剣先が──小さく、揺れていた。
人類最強の手が、震えていた。
リン自身が、一番驚いた顔で自分の手を見ていた。
主を見て、それから、俺を見た。
「……怖い」
ぽつりと、落ちた。
「初めて。……死ぬのは、ずっと、平気だった。でも」
主が、ゆっくりと鎌首を持ち上げる。
「……私がここで崩れたら、誰が、あなたを……」
強さしか褒められたことがない、と言った雨の夜の顔を思い出した。
あの夜と同じ顔で、あいつは今、生まれて初めての恐怖を抱えて立っている。
だから俺は、いつもの声で言った。
「リン。終わったら、何が食いたい」
場違いなのは分かってる。
だが、震える手に効くのは気合じゃない。段取りだ。
リンの目が、瞬きをひとつした。
「……賄い丼。大盛り。卵、二つ」
「あいよ。注文は通った」
俺は主から目を離さずに続けた。
「怖いってのは、悪いもんじゃない。守るもんを持った手は、震えるようにできてる。──研ぎたての包丁と同じだ。よく切れる証拠だよ」
「……ん」
「それと、仕事の話だ。あいつ、脱皮の途中だぞ」
リンの構えが、変わった。
「左の顎の付け根、三枚目の鱗が浮いてる。生え替わりがまだで、下の皮は──茹でる前の筋より柔い」
「……なんで、分かるの」
「十年、剥いできたからな」
リンは長く息を吐いて、剣を鞘に納めた。
納めて、腰を落とした。
「……今まで、強さの置き場所がなかった」
主が、来る。
「──今は、ある」
音は、一度で済んだ。
斬り抜けたリンの向こうで、白い山がゆっくりと傾いだ。
倒れ切るまでの長い静けさを、誰も破れなかった。
最初に鳴ったのは、結局、リンの腹だった。
「……丼。約束」
「ああ。だが悪い、その前に──」
主の巨体の向こう。広間の最奥で、石の扉がひとりでに開き始めていた。
門番が死んで、錠が外れたのだ。
開いていく闇の奥に、それは居た。
赤い。でかい。洞の天井いっぱいに膨らんでは、縮む。
──脈を、打っている。
六十時間先のはずの「核」は、もう、走り出す前の心臓の速さで鳴っていた。




