第25話 仕込みの夜
研ぎの音ってのは、二種類ある。
明日も、同じ仕事を続けるための音。
──それと、そうじゃない音だ。
潜行前夜、午後十一時。
俺は店の看板の横に、貼り紙を一枚張った。
『臨時休業のお知らせ。大きい仕入れに行ってきます。──店主』
嘘は書いてない。
世界でいちばんでかい仕入れだ。なにせ現地までの道を、国が空けてくれるらしい。
配信のアカウントにも、同じ文面を載せた。
五分で、通知が滝になった。
《仕入れ? この人の「仕入れ」、規模が読めないんだが》
《嫌な予感しかしない》
《国家認定の非常勤が「臨時休業」って、それもう国家規模の何かだろ》
《最近の妙なニュースと無関係だと言ってくれ》
《検証班、出番です》
検証班ニキは今夜も鋭い。
だが悪いな。今回ばかりは、検証する映像がない。
貼り紙の糊を撫でつけていると、携帯が鳴った。葛城だった。
「明朝五時、迎えの車を出します。装備は全て国費で支給──」
「まな板は」
「……特注の作業台を三台、先行搬入済みです。研ぎ場も、ご指定の寸法で」
「上等だ。いい役所だな」
「あなたの要求書類だけ、備品欄が市場の仕入れ表みたいでしたよ」
電話の向こうで、葛城が息をついた。
「……真壁さん。今夜は、よく寝てください」
「おう。役人も寝ろ。顔色で出汁が濁る」
零時前。休みだってのに、駐車場に足音が集まり始めた。
最初に来たのは、三脚を持っていないこはくだった。
カメラなし、リボンなし、ネタ帳もなし。
「今日は配信者じゃないです。──ただの常連として来ました」
「常連なら席に着け。今夜は店じゃないが、賄いは出る」
「……どこ行くんですか、とは聞きません。聞きませんけど」
こはくはカウンターに着いて、洟をひとつすすった。
「帰ってきたら、復活配信は私が仕切りますから。100万人総出で、ガチで盛大にやりますから」
「おう。なら米を多めに発注しとかないとな」
それから、ぽつぽつと常連が増えた。
夜勤明けの作業服。客待ちを抜けてきたタクシーの運転手。画面の中の弾幕でしか知らなかった顔ぶれが、初めて画面の外に並んだ。
誰も、何も聞かなかった。
ただ全員、いつもより一杯多く食った。
「残すと傷むんでな。今夜は寸胴の底まで持ってけ」
雷鹿の筋の味噌炊き。魔猪の生姜焼き。賄い丼の大盛り。
仕込みってのは不思議なもんで、空にする夜がいちばん、店らしい匂いがする。
帰り際、夜勤明けの男が、ぶっきらぼうに言った。
「大将。俺、あんたの初日の視聴者三人のうちの一人なんだ。……今まで黙ってたけど」
「そりゃ、店としちゃ大恩人だ」
「だからまあ、その、なんだ」
男は財布をしまって、それから、こっちを見ずに言った。
「──絶対帰ってこいよ。腹減らして待ってる」
「あいよ。毎度」
それ以上の挨拶は、お互いの柄じゃなかった。
客が引けて、庇の下にはリンだけが残った。
明日は護衛として、集合地点で合流する。今夜はまだ、皿を拭く弟子だ。
俺は研ぎ場に座って、十年物の相棒を並べた。
普段の研ぎは、八割の研ぎだ。
刃ってのは、尖らせるほど脆くなる。毎日使う道具は、切れ味と長持ちの間で手を打つのが職人の作法ってもんだ。
だが、明日のあれは日常じゃない。
替えの利かない患者が一人と、しくじりの許されない執刀が一回。
なら道具も、十割で研ぐ。一仕事で刃が終わっても構わない、そういう研ぎ方だ。
しゃり、と砥石が鳴る。
「……音が、違う」
皿を拭く手を止めて、リンが言った。
「分かるか」
「……ん。いつもの音は、眠くなる。今日のは──」
リンは少し言葉を探して、それから小さく言った。
「……討伐の前の、私と同じ音」
「そいつは光栄だ。序列一位と同じなら、研ぎとしちゃ上等だよ」
布で刃を拭う。
十年、毎日見てきたはずの刃文が、今夜は少しだけ知らない顔をしていた。
武器として包丁を研いだのは、生まれて初めてだった。
──いや、違うな。
こいつは明日も、何かを傷つけるためには振らない。
世界の傷んだ臓器をひとつ、丁寧に外してくるだけだ。それなら、いつもの仕事の延長だろう。
「リン。明日の現場で、俺は手元しか見ない。周りを見る余裕はないと思え」
「……ん。周りは全部、私が見る」
リンは畳んだ布巾をカウンターに置いて、まっすぐこっちを見た。
「あなたは、無事に捌く。私は、無事に帰す。──分担」
「いい分担だ。うちの品書きに載せたいくらいだな」
「……帰ったら」
リンの声が、ほんの少しだけ揺れた。
「……帰ったら、新作。約束」
「あいよ、考えとく。──ほら、もう帰って寝ろ。寝不足の護衛は雇えない」
リンの足音が夜道に消えるまで、研ぎの続きは止めておいた。
あの音は、どうやら眠気に効かないらしいからだ。
──同じ夜。
都心のビルの十二階。灯りの落ちた会議室に、一枚の議案書が残っていた。
『特異ダンジョン「胃袋」攻略作戦への独自参加について』
審議は、十五分で終わったという。
提案者の欄にあるのは、エース部隊隊長──鳴海蓮司の署名。
可決の判は、もう乾き始めていた。




