第23話 ヴァンガードの異変・四
その四文字を、鳴海蓮司は市場で聞いた。
火曜の午前、買取商社の査定場。数字を自分の目で確かめるため、鳴海は納品に同行していた。
隣のレーンで、中堅クランの若い搬入係が声を上げた。
「S等級! やった、ついた!」
「いい断面だ。──まかべ印、ってやつですね」
査定人の言葉に、搬入係が誇らしげに胸を張る。
「うちの解体班、あの配信を全員で見て勉強してるんで」
まかべ印。
聞いたことのない言葉だった。聞いたことがないのに、意味は一秒で分かった。
ヴァンガードのレーンの番が来た。
A級飛竜の翼膜。再選定した外注の、一級資格者の仕事。検品は三重化済み。書類の上では、どこにも穴がない。
査定人は断面を計測器に通し、数値をしばらく眺めてから、言った。
「──B寄りのA、ですね」
「規格は満たしているはずです」
「満たしてますよ。満たしてる、ってだけです」
伝票に、判が落ちる。
「悪いですがね、鳴海さん。物差しが変わったんです。今の市場の基準は、資格でも規格でもない。──あの深夜配信の断面ですよ。皆あれを見ちまった。見ちまったら、もう戻れない」
「個人の手技が、市場の基準になると?」
「なったんです。もう」
査定人は次のレーンへ歩きながら、振り向かずに付け足した。
「お宅は一番よく知ってるでしょう。──十年、毎日あれを見られる場所にいたんだから」
木曜、筆頭スポンサーの武具メーカーから、書面が一通届いた。
役員が二人で来たときと違って、今度は紙一枚だった。
『契約更改交渉の中止について』
半年の猶予は、四ヶ月を残して消えた。
電話口で、先方の担当者は申し訳程度に声を落とした。
「品質の件だけなら、期限まで待ちました。ですが──例の切り抜き以降、製品タグに御社の名を入れること自体が、リスクでして」
俺を切ったのは、あんたらの判断だ。
あの一言の再生数を、鳴海はもう、数え直さなくなっていた。
桁が増えるたびに数えていたら、仕事にならないからだ。
金曜の幹部会は、長かった。
経理の読み上げは、淡々と進んだ。素材部門、赤字幅さらに拡大。遠征の損失、回収費、そして筆頭スポンサーの撤退。
読み上げが終わると、誰かが言った。
「エース部隊の維持費は、月にいくらだ」
空調の音が、やけに大きく聞こえた。
「遠征は赤字。広告塔の役目も、今や逆効果だ。なら三十六名の最精鋭は、何のための経費だ──という話になる」
解散論だった。
冗談でも、脅しでもない声だった。
古参の幹部が、資料も見ずに口を開いた。
「外注化の損失。遠征の赤字。復帰交渉の決裂。スポンサーの撤退。──起点は、すべてひとつだ。鳴海君、そうだね」
「……はい」
復帰の条件を据え置きと決めたのは、この部屋だ。
そう言いかけて、やめた。
組織の決定を執行した者が、組織の決定に責任を負う。その理屈で十年勝ってきたのは、自分だった。
「反論は」
「……ありません」
数字で話す男の手元に、もう数字が残っていなかった。
「個人の話ではない。体制の話だよ」
誰かが言った。いつかの会議で、自分が使った言い回しと、一字も違わなかった。
議長格が、書類を閉じた。
「エース部隊の解散案は、継続審議とする。次の四半期で結果が出なければ、決を採る。──鳴海君。これは私情ではない。経営判断だ」
経営判断。
十年が十五分で終わったあの日、十二階の会議室で、自分が口にした言葉だった。
あのとき相手は「そうか」とだけ言って、頭を下げた後輩たちの前を、飄々と歩いて出ていった。
鳴海は、頭を下げた。
角度だけは、間違えなかった。
深夜のオフィスに、鳴海は一人で残った。
書きかけの再建案は、一行で止まっている。
揃える書類の角は、最初から、もうなかった。
デスクの隅に、見覚えのない茶封筒がひとつ置かれていた。総務の付箋が貼ってある。
『素材倉庫の私物整理で出てきました。鳴海様が写っていましたので』
中身は、色の浅くなった写真が、一枚。
十年前だ。
初討伐を終えたばかりの十九歳の自分が、B級魔狼の毛皮の前で、緊張した直立不動で立っている。
その隣で、エプロン姿の若い倉庫番が、剥きたての毛皮を両手で広げて笑っていた。
裏に、几帳面な手書きの文字があった。
棚一段ぶんの申し送りと、同じ手だった。
『初討伐おめでとう。記念の毛皮、裂け目なしで剥いといた。──いい剣士になれよ。真壁』
鳴海は写真を伏せようとして、指が、動かなかった。
写真の中の新人は、まだ知らなかった。
隣で笑っている男を、十年後の自分が、経費の一行に丸めて消すことを。
──そして、写真の中の自分だけが、まだあの男に、まっすぐ礼を言えていた。




